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20世紀末・日本の美術


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1996年(平成8年)
1996年(平成8年)
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:1996年は、スタジオ食堂が結成されます。スタジオ食堂の説明を簡単にしてもらってもいいですか?

眞島:今ここを見たら、スタジオ食堂の結成は1994年でしたね。

中村:あ、そうなんだ。

楠見:いまさっき、ちょうど休憩時間に外で紫煙をくゆらせながら笠原出さん(元スタジオ食堂メンバー)と話をしていたのだけれど。

眞島:東京の立川市にあった旧リッカーミシン工場の社員食堂跡を使っていたので、スタジオ食堂という名前なんですね。アーティストたちの共同アトリエです。設立が1994年、工場の建物が取り壊されることになって、1997年に移転しました。私が参加したのはそれ以降、スタジオ食堂の二期的な活動に入ってからなので、とりあえず1997年以降の話をしましょうか?

中村:スタジオ食堂の話でしたら、そのまま続けて下さい。

眞島:スタジオ食堂は、様々な活動をしていたので一口には言いにくいのですが、アーティスト・ランのスペースです。アーティストによって運営されるスペースであり、基本としてアーティストの共同アトリエがあり、それに併設される形で展覧会スペースや事務所がある、というスタイルです。

中村:アーティスト・ランのスペースは、今ではたくさんあるけれど、日本ではその走りと言っていいのかな。

楠見:日本にもようやくフルクサスが……みたいな。

眞島:そんな感じなんですかね。ちょっと話がずれるかもしれませんが、さっき話したダミアン・ハーストがやったフリーズ展、あれがプロフェッショナルでコマーシャルな部分を含んだ若い作家たちの活動だったというのと、ちょっと通じるところがある。1997年頃というと、現代美術を扱うコマーシャル・ギャラリーが、今までの話にあったように、ある程度出揃ってきていた状況でした。その中で、いかにアーティストとしてそこに参入していくのか? という意識があったと思うんですね。それがスタジオ食堂の一番ユニークなポイントだったと思います。

中村:発表する場所がない、でもサヴァイブしていかないといけないというときに、じゃあアーティスト同士で力を合わせようっていうことですよね。

眞島:そうですね、それもあります。

中村:上の世代、村上さんと楠見さんと椹木さん、中村政人さんってほぼ同世代ですよね。その世代のひとたちは同世代で一緒にシーンを盛り上げていくということをしていたんですが、スタジオ食堂、つまり僕たちの世代になると、もうそれぞれがそれぞれの造形作品をつくるという感じで、サヴァイブのために組織をつくっても、作品制作自体は個別的になっていく。シーンをつくるより、それぞれの造形制作に集中するというか。そこが僕たちの世代がひとまとまりで見えにくくなっている原因かもしれない。ちなみに楠見さんの世代で一番思い出すのは、オウム真理教の上祐とかですね。

楠見:僕は上祐に(顔が)似てるってさんざん言われたんで迷惑しました。

会場:笑

中村:あとミュージシャンの菊地成孔(1963-)さんも同じくらいですよね。彼のレクチャーで聴いたんですけど、「我々の世代が初めて職場のパソコンの上にフィギアを並べた。大変申し訳ない」、みたいな。ポップ・カルチャーとオタクの一番コアな最初の世代と言ってもいいと思うんですけれども。すみません、話がずれました。…スタジオ食堂は生まれ始めていた新しいコマーシャルギャラリーの時代にサヴァイブすべく組織された共同体だったということでしょうか。

眞島:そうですね。それともう一つは、自主企画による展覧会をオーガナイズする、そういうオルタナティヴな場所を自分たちで作ろうという動きでもあった。その両方が同時進行していたのがスタジオ食堂だった。

中村:その一番代表的なアーティストが中山ダイスケ(1968-)さん…

眞島:中山ダイスケ、須田悦弘…。ここに活動をまとめた本がありますが、こういった記録もきちんと残す。企業メセナから活動資金を取ってくる。そういうところも含んだ活動をしていたグループでした。

中村:これこれこれ(スタジオ食堂で開催されたSTARS展のリーフレットを持って)。

眞島:これは移転する前ですね。数百人集まって、まあ凄かった。私はこの時はまだメンバーじゃなくて一人の観客として行ったんだけど、凄い熱気でした。

楠見:これインディーズ・マガジンの『VOID(ヴォイド」)』っていうの、持ってきたんだけれど、表紙が中山ダイスケさん。

中村:これ柘植さん(柘植響)が作ってたんだよね。僕も持ってた。こういうインディーズ・マガジンとか、フリーペーパーとかみたいなものもけっこうあった。1996年に初めて僕自分のホームページを作るんですけれど…。

永瀬: 1996年? 早いね。

楠見:アーティストのホームページとしてはかなり早い。

中村:でもウェブにアートの情報が流通するにはまだまだ時間が必要だった。また話戻るけど、中山ダイスケさんが、当時のギャラリーQ、貸し画廊を借りて、入場料を取るっていう展覧会をやってるんですね。ここにそのステイトメントがあるんですけれど、どうやって自分たちが作家活動をしながらお金に換えていくのか。まだコマーシャルギャラリーがさっきも言ったようにミズマさんとかタカイシイさんとか小山さんくらいしかないんです。だから展覧会やろうにも、どうやって継続していくのっていうときに、入場料を取ってみるっていう実験をやっているんですね。そういう試みがあった。

永瀬:オルタナティヴ・スペースとかアーティスト・ランのスペースとか、今は普通かもしれないけれど、当時は画期的だったと思うんです。が、何が障壁になっていたかというと、今の言葉で言うとコミュニケーション能力。美術大学に入る人間の多くが、パッとネットワークを作れる人はむしろ少数派だったはずです。当時、僕みたいな沈黙していた人間というのは、じゃあなにかやりたいって思ったときに、人と集まるのはカッコ悪いっていうイメージがあったんですね。カッコ悪いっていうのは、単に能力がないんですけれども。

中村:「リア充爆発しろ」みたいな。

永瀬:今はそういう言葉があるのですっと表出できるんですけれども、当時はそういう言葉もなかったので、そのネットワークが持てない人間というのは悶々としていた。 今話が戻ったので挟んじゃいますけれど、1995年『モダニズムのハードコア』が出た同じ年に、「視ることのアレゴリー」という展覧会がセゾン美術館でありました。

中村:『アサヒグラフ』でも特集しているよ。

永瀬:重要な展覧会だと思います。どういうことかと言うと、岡崎乾二郎(1955-)さん、あるいは松浦寿夫(1954-)さん、他にも何人かいらっしゃいますけれど、今も持続的に活動していらっしゃる、特にフォーマルな…。

眞島:中村一美(1956-)さん。

永瀬:中村一美さんもいます。あと小林正人(1957-)さんですね。フォーマルな意識を持った作品を作って生きていけるんだっていうイメージを、つまりポップじゃなくていいんだっていうイメージを、かといってゴテゴテの彫刻家の石彫とか、油絵科の油絵じゃない、どれでもない、いわば第三の道みたいなものが存在していいんだっていうのが、僕個人的に初めて認識したのはこの展覧会なんです。

中村:ようやく沈黙を破れるかっていうところですよね。

永瀬:まだ破れないんですけど、道が見えたなっていう感じが僕はしました。

中村:この年にピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu/1930-2002)とハンス・ハーケ(Hans Haacke/1936-)の本が出ています(『自由‐交換―制度批判としての文化生産』、藤原書店、1996年5月)。

永瀬:そうです。これは僕が美術に社会学が入り込むってどういう事かを最初に理解した本です。

中村:ブルデューはフランス人の社会学者?

永瀬:そうですね。ハンス・ハーケはアーティストです。この二人が対談をするんですけれど、先ほど眞島さんがおっしゃっていた、イギリスでのPC的な美術の動きが日本でまったくイメージを持たれなかったという…。

中村:PC、ポリティカル・コレクトネス―「政治的に正しい」って意味ですね。

永瀬:そういうものが美術と結びつく状況をとても分かり易く読解できた本でした。PCアートやその紹介は無論前からあったけど、これだけ明快に欧米でのPC的アートを日本語で理解させたのって、僕個人に限らず、この本が最初じゃないかなっていう気がします。

中村:…ちょっと話が難しくなってきたので、軽くお笑いタイムにしてもよろしいでしょうか? 僕と眞島さんが同じメディアに出ている記事を今回発見しまして、1996年の『ぴあ』にですね、「おもろいアートが炸裂」っていう特集がありまして(笑)。(プロジェクションする)明和電機さんがもうデビューされてるんですよね(特集のトップページに明和電機が掲載)。

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眞島:お兄さんがいた頃ね。

中村:お兄さんいるね。『ぴあ』知ってる? みんな、若い人。『ぴあ』って雑誌があったんです。それでですね、どんなのが紹介されているかっていうと、会田誠(1965-)さんが「貧乏系」アーティスト。

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会場:笑

中村:当時こういう扱いですよ。

永瀬:最近会田さんちょっとキャラ変わってきたよね。

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中村:村上さんまでこういう扱いですからね。世間的にはまだこういうレベルの扱いなんですよ。眞島さんは天ぷらやってやがると。僕は日本画で漫画みたいなのやってると。しかも、「作品はいくらか?」っていうのがお笑いコンテンツとして掲載されているんです。まだコマーシャルギャラリーがそれほどないということがよくわかると思うんだけど、僕らが作っているものが売れるとか、流通するっていうことが、馬鹿にされている。そんなノリが、1996年にはまだ十分にあるっていうことです。

楠見:(スクリーンを見ながら)中村ケンゴに値段がついてますね。

中村:会田さんもついちゃっているし。値段つけることが笑いのネタになってるわけだから今考えるとひどいですけど(苦笑)。

楠見:ああ、でもその意味では、当時は日本の美術界的には「視ることのアレゴリー」とかの方が断然主流で、会田誠も村上隆も明和電機も中村ケンゴもみんな非主流だったんですよ。

永瀬:どういったらいいんでしょうね、変な乖離があって、いわゆる美術館でまともなキュレーションで展示をしているのは「視ることのアレゴリー」なんですが、それがきちんとした評価を受けない。この展覧会には作家がすごい沢山いるのですが、必ずしもフォーマルな意識を持った人ではない方が話題になったりする。

中村:名前は言えない?(笑)

永瀬:(笑)。展覧会全体の中で適切な論点が主流を成したかは怪しいなっていう気がします。 あと、中村さんの記事を見ていて思ったのは、明和電機さんっていうのはすごく象徴的な例、アートが芸能化するっていうことの一つ象徴的な転換点だと思います。今美大に来る人の意識の結構な割合が、いわゆる芸能界デビューと同じようなイメージでアーティスト・デビューっていうのを思ってるんじゃないかなっていう気がする。将来アーティストになるって、つまり芸能人が私はアーティストなのって言い出すのがもうちょっと後なんですが。

中村:本田美奈子さん。

永瀬:そうか、そうしたら同時代か(笑)。明和電機さんとかって、逆に芸能の方法論を美術に取り込んだ。そのときは当然クリティカルだったんだけれども、いつの間にか芸能の方に乗っ取られてしまってですね…。

楠見:ミュージシャンがアーティストって言い始めたのはもっと前ですよ。というのは、明和電機のデビューは「ソニー・アート・アーティスト・オーディション」でグランプリをとった結果なんです。もはやすでに、レコード会社が抱えるミュージシャンが音楽業界でいう“アーティスト”であって、我々は“アート・アーティスト”を探すんですよ、っていうオーディションだったんですよ、あれは。

中村:そうか、「アーティスト」の前にもうひとつ「アート」を付けないと美術家にならない…。

眞島:ミュージック・アーティストじゃなくて、アート・アーティストっていうことですよね。

中村:たしかに飲み屋とかで「アーティストの中村ケンゴさんです」なんて紹介されると、「なんのアーティストですか?」って聞かれますからね…。

永瀬:ミュージック・シーンでは90年代、小室哲哉(1958-)さんの名前は覚えておいていいんじゃないかなという気はします。80年代まで洋楽って言われて日本の独自の歌謡曲と別の流れにあったものを、(はっぴいえんどのような「翻訳」のような作業を通さず)直接取込んでポップ・ミュージックを作っていくっていうのが一般化した時代じゃないかという気がする。そこで一度ダサくなった歌謡曲、という状況へのカウンターとして多分モーニング娘。とかが出る。


    自主企画による展覧会

    スタジオ食堂は、1997年の移転後、アーティストの共同スタジオとしての機能に追加して、自主企画による展覧会を開くためのギャラリー・スペースを併設した。その運用を含むスタジオ食堂全体のディレクションを担当するプロデューサー(菊地敦己と沼田美樹の二名、1998年まで)を加えることで、より総合的なアート組織としての運営形態が模索された。<眞島>


    上祐史浩

    (じょうゆうふみひろ・1962-)元オウム真理教の外報部長で、サリン事件後はマスコミの取材を一手に引き受けるスポークスマンとしてテレビに映らない日はなく、どんな質問に対しても反論して教団を正当化する受け答えから「ああいえば上祐」という流行語が生まれた。早大英語部出身で外国人記者団に英語で反論する様子が「ディベート」という当時まだ聞き慣れなかった言葉とともに報道されたりもした。アーレフ、ひかりの輪と組織を変えてなおオウム残党の中心にいる。ここまで説明してきてなんだがアートとはほとんど関係ない。<楠見>


    柘植響

    (つげひびき)自費出版人/ライター/プランナー。1995年よりアートヴォランタリーマガジン『VOID』を編集・発行。

    VOID

    商業的な美術雑誌よりも早くから小沢剛、大岩オスカール幸男、会田誠、松蔭浩之、中山ダイスケ、チャップマン兄弟らにインタビューを敢行、昭和40年会とスタジオ食堂とYBAをつないでみせた。当時の誌面には「発行の目的」として「情報・流行を追うのではなく、アーティストが作品について語る『場』、インディペンデントな活動も含む表現活動についての議論の『場』であり、アートを身近な話題としてとりあげていきます」とある。さらに『Alternative Link -art and culture』、『日向あき子追悼サイト』、メールマガジン『VOID Chicken Nugget』などを運営・編集。あえて自分の手による自費出版や個人発信のメディアにこだわる姿勢はDIYやオルタナティヴ文化を継承する自由な出版活動のありかたとして、Zineブームの先駆でもあった。<楠見>


    ピエール・ブルデュー

    1930年生まれ、2002年没。フランスの社会学者。藤原書店による1995年以降の「芸術の規則」等の訳出は美術を社会学の立場から読み解くという、0年代以降国内でよく見られた傾向の準備として重要。ここでシンポジウム冒頭に筆者が出した美術の外部からの侵入、つまり文学・アメリカ経済・建築・社会学が出揃ったことになる。<永瀬>

     

    明和電機

    1993年結成、当初は土佐正道(兄、社長)土佐信道(弟、副社長)からなるユニットだった。同年の第2回アートアーティストオーディション大賞受賞。筆者が明和電機の展示を見たのは1997年の渋谷パルコパート3で、VHSテープのビデオクリップを購入している。個人的にはどちらかと言えば「バカテクノ」への関心から興味を持っていた。今でも彼等のマスターピースは初期のとぼけたライブパフォーマンスにあると思う。<永瀬>

     

    小室哲哉

    1958年生まれ。ポップミュージシャン。所属したTM NETWORKの94年の解散時には一報がNHKニュースで流されいろんな意味で度肝を抜いた。ソロ活動としては華原朋美、安室奈美恵らに多数の楽曲を提供している。このシンポジウムで語られた時期はおおよそ小室サウンドが街中で流れており、好悪は別として明らかに時代の空気を体現していた。<永瀬>

     

    会田誠

    1965年生まれ。美術家。アイロニカルな作品で知られるが、無論アイロニーとはシリアスであることの一側面に他ならない。会田が日本の安アパートに潜伏したビン・ラディンに扮し愚痴を言う作品は磯崎新がシンポジウムで引用していた。最近はtwitterで芸大生に苦言を呈する等日本の美術界の未来を憂う事深甚。永瀬は会田こそ芸術院会員に相応しいと信ずる。芸術院に展示される幾多の作品に比べれば「スペース・ウンコ」が展示されている方が遥かにノーブル。<永瀬>




自由‐交換―制度批判としての文化生産 (ブルデューライブラリー)
自由‐交換―制度批判としての文化生産 (ブルデューライブラリー)
1997年(平成9年)
1997年(平成9年)
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:1997年は香港返還がありました。眞島さんからはアジア美術ブームも重要だという話を聞いていたのですが、この年アジア通貨危機もあるんですね。タイバーツと韓国ウォンが暴落する。グローバリゼーションがいよいよ本格的になってきているのかなっていう印象があります。

眞島:アジア美術については、私は当事者でもなんでもなくて、本当に印象の話なんですけれど、谷新(1947-)さんの『北上する南風―東南アジアの現代美術』(現代企画室、1993年12月)という東南アジア美術についてまとまって書かれた本が出版されたし、アジア美術の動向を紹介する様々な展覧会、それから福岡での黒田雷児(1961-)さんらの動き。90年代はアジア美術がグローバルにも盛んに言われていた時代で、その流れが日本に入ってきたのが90年代後半だったと思います。

中村:福岡アジア美術館が開館しています。ただ当時は日本からアジアを見るっていう感じでしたけれど、今では、たとえばポップ・カルチャーにおいては、東アジアと日本はほぼ一体化しているような状況が生まれていますよね。それこそ韓国の少女時代、それから嵐が上海行っても台北行っても大人気だという。香港、台北、シンガポールのアートフェアも盛況です。90年代当時は、例えば中国のことをこんなに意識するようになるなんて思ってもいなかった。

眞島:東アジア全体でハイブリッド化されたポップ・カルチャーを共有する傾向は、ゼロ年代以降は顕著ですよね。あと、日本の近代美術史とそれに対する批評の話をすると、旧来の西洋対日本という基本構図に東アジアが取り入れられるようになった。西洋画に対する日本画/洋画という構図を延長するような感じですね。日本を経由する形での東アジアにおける美術の近代化の研究が盛んになっていったのが、おそらく90年代後半からだと思います。

中村:そうですね。日本は明治維新で西洋文化が入ってきて日本画、洋画っていう言葉が生まれますけれど、たとえば朝鮮半島はもっと複雑で、日本の近代化を通して近代化するという…。

眞島:日本には帝展とか文展とか、そういう公(官)が主催する展覧会がありましたけれど、その外地版、たとえば朝鮮には朝鮮の展覧会(鮮展=朝鮮美術展覧会)があり、台湾には台湾の展覧会(台展=台湾美術展覧会)があり、満州には満州の展覧会(満展=満州国美術展覧会)があった。90年代は、そうした東アジアでの近代美術の歴史を読み込む仕事が始まった時代でもあると思います。

中村:この年にさっき話したYBAのアーティストが中心となったサーチ・アンド・サーチのコレクションによる「センセーション展」が行なわれています。

眞島:起きるはずがないと思っていたイギリス美術のコマーシャル化が、本当に起きてしまったということですね。

楠見:クール・ブルタニア政策がようやくここでアート界で実行支配を開始し始めた。

中村:クール・ジャパン政策は全然ダメなのに、イギリスは大成功。また話が戻るのかもしれないけれど、この年に「たけしの誰でもピカソ」(テレビ東京)が始まっています。

眞島:いわゆる現代アーティストのイメージが、どういう形であれお茶の間にバラまかれるようになったわけで、「たけしの誰でもピカソ」はやっぱり重要じゃないですかね。こういうものを現代アートの内側にいる人たちが気にするようになった、そういう時代でもあったと思います。


    黒田雷児

    福岡アジア美術館学芸課長。1961年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。2010年に黒ダライ児の筆名で『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(grambooks)を上梓した。<眞島>





北上する南風―東南アジアの現代美術
1998年(平成10年)
1998年(平成10年)
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:「G9 ニューダイレクション展」がスパイラルで行なわれます。G9っていうのは当時のコマーシャルギャラリーの九つが、青山のスパイラルで同時に展覧会を行うという企画で、ここでついにコマーシャルギャラリーがアートシーンの中心に名実共にきたかなと。

楠見:正確に言うとそれまでもコマーシャルギャラリーは、いわゆる老舗と言われる東京画廊であったり佐谷画廊であったりとかはあったわけだけれども、要するに新しい世代のアーティストを貸画廊でなくちゃんと商品として扱うっていうニュー・カマーたちがここに集まったという感じだったんですよね。

中村:基本的にこの状況がリーマン・ショックまでどんどん強くなっていった。このことと、奈良さん以降の絵画のマニエリスム化は対応していると思います。要するに、絵が売れるようになった。僕の同世代は誰も絵なんて描いてなかったのになあ。

楠見:貸画廊や美術館の新人アニュアルなどで自由な表現スタイルとして流行ったインスタレーションではなく、やっぱり売れるのは絵画だろうっていうのがそこで証明された。

中村:みんな絵描きはじめちゃってね…、まぁいいです。

会場:笑

中村:この年ですね、椹木野衣さんの『日本・現代・美術』が出ます。柄谷行人さんの話に戻るかもしれません。

眞島:これは要するに、この十年間のまとめってことですよね。

中村:最初に『眼の神殿』の話、それから『日本近代文学の起源』の話をしましたけれど、これで極まれりという感じでしょうか。

眞島:そこでポップが絡み、戦後批評が入って、それでひとまとまり。

永瀬:これは爆弾発言に近いことになるんだろうと思いますが、椹木野衣さんの『日本・現代・美術』っていう本は、僕はアートの本というよりは、文芸批評の本として読んだ。大江健三郎(1935-)や水村美苗(1951-)が大きな扱いで出てくる。そしてその方法論ですね。柄谷行人の方法論に近いものだなと。

眞島:これは方法論でいえば、まんま、って言っていいんじゃないですか。

中村:確かにその、リミックスのような感じもしますね。

永瀬:椹木さんの活動を見ていて思うのは、この人の資質は基本的に文芸批評家ではないか、っていう疑いを僕はいまだに持っています。つまり、美術批評家の資質に真の意味で恵まれた美術批評家ではないんじゃないかっていう気が、ちょっとしています。というのは、この人の特徴的な点なんですけれども、絵画に対する評価っていうのが非常に危うい。岡本太郎(1911-1995)のことを評価しますが、彼の岡本太郎評価っていうのは岡本太郎の文章に対する文芸批評なんですね。たとえば岡崎さんっていう人が、後に『ルネサンス 経験の条件』(筑摩書房、2001年7月)でヨーロッパ美術のことを語りながら、語り口がアメリカのフォーマリズムであるっていうのと平行していて、椹木野衣さんはアートのことを語りながら方法論が文芸批評だったっていうのは、一言、リアクションは求めないので僕の感想として言っておきます。

楠見:僕は直接の担当編集ではなかったんだけれど、比較的近い場所で『BT』連載時から面白がっていたのは、『日本・現代・美術』って、基本的にそれぞれの時代を代表する批評家の文体をある種盗むというか、正確には消化して擬態する、つまりは批評のコスプレ的な手法で対象になりきるという読み物だったんです。その意味では正確には中黒をもうひとつ足して『日本・現代・美術・批評』っていうことなんですよね。要するに美術の作品ではなくて、日本の美術批評がそれらに対して何を語ってきたかが主題であって 当時あの中黒そのものが批評として機能しているという言われ方もしていました。

永瀬:あとこれはフォローじゃないんですけれども、1970年代の美術批評家っていうのが大学の先生になってアカデミズム化してアクチュアリティをなくした。これもリアクション求めないので聞き流して欲しいのですが。

中村:いや、これ重要ですよ。村上(隆)さんのことも無視した。

永瀬:当時いわゆる美術批評家で食べているっていうのが、椹木野衣さん一人になった。どういうことが起きるかというと、批評っていうのは常に他の批評に対して批評なんですね。つまり、他に批評家がいないと批評家って非常に成り立ちにくい、あるいは成り立たないんですよ。この五年、十年っていうのは椹木野衣さんがいわゆる美術批評家として単独でいる状況になっている。これは椹木さんにとって非常に辛かっただろうなと思います。

中村:本来、椹木さんはカウンター的な存在のはずなんですよ。

永瀬:そうなんです。そのカウンターになる壁が、ほぼ村上隆も椹木野衣も無視して、大学でお給料をもらいながら自分の枠組みだけで仕事をしている。唯一多分藤枝晃雄(1936-)さんっていう人が、若干なりともボールを投げていたかなと思うんですが、ほとんど明後日の方向に投げていて、しかもあの人は致命的なことに文章が書けないというか、文体が非常に特殊といいますか。椹木さんは文章が書ける人なんですが、藤枝さんの文章って僕いまだに読めないんですよ。

中村:文芸批評なんじゃないかって話が出ましたけれど、そもそも現代の日本美術の通史っていうものが書かれたことがあるのかっていう問題があると思うんです。今日中ザワヒデキさんいらっしゃっていますけれど、中ザワさんによると、通史を書いた人っていうのは三人いて、針生一郎(1925-2010/e.g.『戦後美術盛衰史』東京書籍、1979年)さん、千葉成夫(1946-/e.g.『現代美術逸脱史:1945-1985』晶文社、1986年)さん、そして椹木野衣さんなんだけれど、全員文芸批評っぽすぎるんじゃないかと。で、私が唯一インデックスとしての歴史を書いていますと彼は言ってます。

永瀬:これは日本の美術批評の伝統的な問題なんですけれども、徹底的に文芸批評に延々従属している。1970年代の美術批評家っていうのは原則的に花田清輝(1909-1974)に従属している。1980年代以降の椹木野衣さんは柄谷行人に従属している。それ以降の美術批評家が誰かっていうのはわからないのですが、やっぱり東浩紀(1971-)さんの影響力っていうのは大きいんだろうと思います。

中村:おっと、この年に東浩紀さんの『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(新潮社)が刊行されています。

永瀬:東浩紀さん、今は小説家っていう肩書きになっているかもしれないですけれど、僕は江藤淳(1932-1999)とか吉本隆明(1924-2012)とかそれから柄谷行人の正嫡の文芸批評家っていうかたちで出てきたと思うんですね。たとえば黒瀬陽平(1983-)さんへの影響力の…。

中村:そうですね、東さんの話をしたら黒瀬さんの話もでるかもしれないですね。


    岡崎乾二郎

    1955年生まれ。造形作家。仕事のレベルが高すぎて一般性が得られにくいのは、消費過程への作家本人の抵抗の現れだろう。流通した者勝ちというゲームをしている美術業界にあって反時代的存在。自ら率いる四谷アート・ステュディウムは着々とユニークな作家を輩出しつつある。美術学校としては既に歴史的重要性を持ちつつあるが、岡崎自身を含め当人達の批評水準が頭抜けているので周囲が誰も彼等をクリティカルに位置づけられない。<永瀬>


    藤枝晃雄

    1936年生まれ。美術批評家。否定的に言及しているが、70年代にフォーマリズム批評を実践した重要な批評家である。79年には今でも重要度を失わない『ジャクソン・ポロック』を刊行。95年の「モダニズムのハード・コア」ではグリーンバーグを上田高弘らと共に訳出している。これを元に2005年には「グリーンバーグ批評選集」を出した。90年代に椹木野衣に対し(「悪口」だったとはいえ)反応していたことは記憶に残る。<永瀬>

     

    花田清輝

    1909年生まれ、1974年没。文芸評論家。岡本太郎と強い関係にあり、高く評価した。こと美術に関して言えば明らかに作品を見ることが出来ない批評家であり、以後、美術批評に大きな影響を与え続ける「美術がわからない文芸評論家」の典型となったのではないか。その点、今でも読むに耐える「近代絵画」を書くことのできた小林秀雄は実に偉かったのだと声を大にしていいたい。<永瀬>

     

    東浩紀

    1971年生まれ。批評空間に連載していたデリダ論を大幅に改稿した「存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて」を1998年に刊行。同書は今に至る迄デリダ論の嚆矢。以後、アニメや美少女ゲームといったオタクカルチャー、社会学、果ては育児まで幅広い領域から発言と著作を繰り出している。筆者は以前、東を吉本隆明の失敗したポップ論のリベンジを行った存在として見た『言語の爆発的失敗』を書いたことがある。また詩人の佐藤雄一による「QF小論」(『ユリイカ』 2010年5月号)は東と吉本の関係を精緻に書き出している。<永瀬>




日本・現代・美術
日本・現代・美術

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて
1999年(平成11年)
1999年(平成11年)
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:ノストラダムスの大予言によって地球は亡びるはずだったんですが…亡ぶことなく、世田谷美術館で「時代の体温 ART/DOMESTIC」展。東谷隆司(1968-)さんのキュレーションです。これちょっと世代論になってしまうかもしれないけれど、やはり楠見さんの世代って、初めて村上さん、楠見さん、椹木さん、つまりアーティスト、編集者、評論家が三位一体で一つのブームを作るっていうのが初めて意識的に行なわれたと思うんです。

眞島:そこに小山登美夫は入らないんですか?

中村:画商も入るっていうことですよね。要するに、初めてそういうアメリカ型の売り出し方をされた、それを同世代の仲間でフォローしていく、みたいな。でも東谷さんがやった仕事っていうのは、レアグルーヴDJじゃないけれども、世代関係ないんですよ。東谷さんは僕たちと同世代ですけれども、とにかく、面白ければどっからでも持ってくる。今、田中敦子(1932-2005)さんの展覧会(「田中敦子―アート・オブ・コネクティング」)を東京都現代美術館でやっていますが、田中敦子さんの再評価っていうのもこの「時代の体温展」がきっかけになってるんじゃないかな。つまり同世代をフォローするっていう感じがないんです。さきほど永瀬さんが「人と集まるのはカッコ悪い」と言われてましたが、僕たち世代はそうした上の世代に対して冷ややかなところがあったのかもしれない。それからモーニング娘。が前年にデビューしてるんですけど、「時代の体温展」のカタログのテキスト、最初の方、ほとんどモーニング娘。の話なんです。そういうのもね、椹木さん的なポップ文脈で美術を語るっていうのが定着している、そういう印象もあります。

楠見:東谷さんのすごいところは、日本の現代美術をモー娘。とか尾崎豊とかと接続しちゃうんですよ。「時代の体温」展の副題は「ART/DOMESTIC」で、彼のいうドメスティックはいかに我々日本人自身に密着しているかであって、その意味では椹木さんの「悪い場所」と同じ場所を差しながらそれを悪としていない、土着的なものを善しとしているふしがある。

中村:この年はあとコマンドNが「秋葉原TV」っていうのをやっています。これもストリート系だと思うんですが。

楠見:「秋葉原TV」は電気街を使ったメディア・アート展示の色合いが濃かった。「ザ・ギンブラート」で起動し「新宿少年アート」で拡散したストリート・アート、ゲリラ・アート的なものが、ここからきちんと新しい時代のパブリック・アートへと変わっていく瞬間でもあったんですよね。助成や後援をしっかりつけて、テーマは公共性へと変化してきた。

中村:そのコマンドNが、今の千代田アーツ3331になるわけです。こうやって十何年も経って3331になっていくわけだから、すごいな。中村政人さん一貫してやっていますね。ちょっと世代の話になっちゃったんで、ついでに言うと、この年昭和40年会とスタジオ食堂が一緒にトークショウをしています。これ世代間対立みたいなのはあったんですか?

眞島:えっとね、喧嘩したら面白いだろうっていう期待が多分あったんですが、全然ならなかったという(笑)。とても楽しい対談で。私は、会田さんか松陰さんから「眞島さんは真面目な人だね」っていうコメントを貰った、みたいなね。そんな感じでした。

中村:あしらわれた?

眞島:そういうわけじゃなくて、世代間対立っていうものが、演技としても機能しなかったということですね。敢えて対立に持ち込んで、煽り合って言葉を引き出して盛り上げるみたいなやり方が、ほぼ冗談にしか思えなくなっていた気がします。

中村:永瀬さん、この年セゾン美術館閉館です。

永瀬:最後はアルヴァー・アールト(Hugo Alvar Henrik Aalto/1898-1976)の展覧会(「アルヴァー・アールト 1898-1976」)ですね。これがどうのこうのっていうのはなかったのですが、一つあとでわかったのは、セゾン美術館っていうのは不動産開発の会社だった。
<※永瀬のこの発言、および以後のセゾン美術館と不動産開発を結びつけた発言は、後にご指摘頂いた通りで事実誤認です。セゾン美術館と国土は完全に切れていた。セゾン美術館に関わった方、並びに当日ご来場下さった方に謝罪いたします。>

中村:セゾン美術館ってみなさんご存知ですかね? 池袋の西武百貨店の中にあった大きな美術館なんですけれど。

楠見:もとは西武美術館。

中村:名前が変わってセゾン美術館ですね(西武美術館として1975年に開館し、1989年10月に改称)。

永瀬:セゾン美術館っていうのはこの10年くらい、90年代非常に大きかったと思うので、コメントをしたいと思います。建築家の展覧会、ル・コルビジェ(Le Corbusier/1887-1965)だとか、最後アールトですとか、デイヴィッド・スミス((David Roland Smith/1905-1965)とかのフォーマルな美術とかをすごい紹介したり、ギルバート&ジョージ(Gilbert and George)の展覧会もありましたし。そういうものを輸入する上で非常に僕たちなんかは、さっき言った「視ることのアレゴリー」なんかもありましたけれども、すごい眩しかった美術館なんです。
ただ、あとで振り返ってみると、なんでそういうことが成り立ったかというと、まずバブルっていうのが一つあった。それが終わったからセゾン美術館も終わったわけです。それからあるのは、今ある森美術館の構造と同じなのですが、不動産開発をしている会社が建築家の展覧会をすることの一つの意味っていうのは、非常に覚えておくべきだろうと。つまり、建築とか土木開発っていうものを称揚するっていうことは、明らかにコマーシャルな意味があったということです。あと「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・蘇る復興の夢とビジョン」(2011年9月17日-2012年1月15日)がついこの間森美術館であったのですが、それはまさにそういう文脈で行なわれていて、あれは非常にエポック・メイキングであったけれども、ダメな展覧会だったっていうのは、メタボリズムにある「老化」「死」の可能性に触れなかった。「あの頃はよかった」っていう展覧会にしかならなかった。

楠見:みんなもう忘れかけてるけど、六本木ヒルズがある場所は昔六本木WAVEといってセゾン系の音楽メガストアと映画館の入ったビルだった。西武美術館もセゾン・グループ、つまり堤清二(1927-)さんの方で、むしろ僕が西武美術館・セゾン美術館に思い描くのは、経済や市場を新しくしていくことによってライフ・スタイルを換えていって、それによって新しい文化を創造していくという……。

中村:僕は今この二人のポップとモダンの対立を非常に嬉しく見ています(笑)。

楠見:ある意味では、20世紀前半のアヴァンギャルドが革命を通じてやろうとしていたことを、高度資本主義の日本で実現したのがセゾン・グループだと思うんだけど。西武美術館は80年代にそれこそロシア・アヴァンギャルドとプロパガンダ美術を集めた「芸術と革命」展をヒットさせたりしたんです。当時大学生でゲルニカやYMOを聴いていた僕はそこにニュー・ウェイヴのルーツを発見したりしたわけですが……そうそう、無印良品をつくったのも堤清二です。

中村:80年代のセゾン・グループの広告、糸井重里(1948-)さんとかのコピーとかそういう文化は本当に僕らに染み付いていると思うんですけどね。

永瀬:小説家の保坂和志(1956-)さんとか…。

中村:保坂さんが、西武コミュニティ・カレッジにいらっしゃった。それで、橋本治(1948-)さんの「恋愛論」講義なんかの担当をされたりしているんですよね。

永瀬:それから『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』っていう本を出した、林道郎(1959-)さんっていう上智大学の美術史、美術批評家の先生がいますけれども、この人も一時期セゾンにいたっていう。いろんな後の展開の種を蒔いている。

中村:これはそのままアールヴィヴァン(ART VIVANT)、ナディッフ(NADIff)まで繋がっていきますね。この年ね、宇多田ヒカルのアルバム(「First Love」)が700万枚売れています。CD700万枚ってすごくね? やばくね? 

永瀬:今1万枚売ったら大変ですからね。

中村:漫画もそうで、1995年に『少年ジャンプ』653万部というのがあるんですけど、今、ミュージシャンも漫画家も食えない時代が来たじゃないですか。90年代、僕たちの共通の話題は常にポップ・ミュージックが中心だったと思うんですけれども、今そうじゃないんじゃないか。

永瀬:きっかけの一つであると思いますが、1998年にiMacが出て、1998年、1999年にインターネットが一般化したっていうのをさっきバックヤードでしていたんですけれども。

中村:そうだよね。

楠見:要するにアンディ・ウォーホルが言った、「誰もが未来には15分だけ有名になれる」っていう時代が本当に来てしまった。

中村:本当にみんなバーバラ・クルーガーのTシャツを着ている時代が来ちゃった。


    昭和40年会とスタジオ食堂のトークショウ

    昭和40年会のビデオ映画『晴れたり曇ったり』完成記念展でのトーク。会場はNADiff(表参道)。<眞島>


    松蔭浩之

    写真家、美術家。昭和40年会会長。1965年福岡県生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業。http://mizuma-art.co.jp/artist/0220/<眞島>


    セゾン美術館

    筆者のとんちんかんな事実誤認で混乱させてしまったが、そのクロニクル自体で一つ展覧会があってもいい程重要な存在である。当時隆盛したデパート美術館とは一線を画し作品収集も行っていて、残った成果は軽井沢セゾン現代美術館で見ることが可能。99年以後はスタッフがセゾンアートプログラムとして残り幾つかの展覧会企画等を行った。現在朝日出版から出ている「絵画の準備を!」は、当初セゾンアートプログラムから出ていたことも記憶しておきたい。<永瀬>


    堤清二

    (つつみせいじ・1927-)は、西武グループを一代で築いた堤康次郎の二男。西武百貨店を中心としたセゾン・グループを展開した実業家であると同時に、辻井喬のペンネームで小説を書くなど文化人としての顔をもつ。いわば西武の黄金時代の“文化系”担当。いっぽう腹違いの弟である堤義明(1934-)は“体育会系”担当で、父から西武鉄道グループを任され、リゾート開発、西武ライオンズ、国土計画(現コクド)アイスホッケー・チーム、ウィンター・スポーツ選手の育成、長野オリンピック招致まで駒を進めたが、証券取引法違反で逮捕され堤王国の帝王学の闇の部分を露呈した。1980年代=西武の時代はこの堤兄弟がライバルとして競い合うかたちで左右の翼を拡げるように上昇したといえる。<楠見>


    林 道郎

    1959年生まれ。上智大学教授。美術史、美術批評。コロンビア大学で取得した博士論文の審査ではロザリンド・クラウスやジョセフ・コスースが激論を交わしたという伝説を持つ。古今東西の実作に当たった経験、隙のない文献知識、それらに囚われない作品への価値判断は帰国後幅広い信頼を得ている。案外ミーハー。あといい加減既発表の論考を単著で出してもらわないと困る。更に言えばセザンヌ論どうしたんでしょうか。<永瀬>

     

    iMac

    米国apple社の亡きスティーブ・ジョブズが送り出した家庭用パソコン。無個性なベージュのマシンとなっていたマッキントッシュにネット端末としての絞りこまれたコンセプトとそれに沿ったデザインを施した。日本でも1998年に発売され、ネットを一部の好事家のものから多数の一般の人たちへ開放した。<永瀬>

     

    インターネットがすごい一般化した

    ここで特筆すべきはそれまで既存の出版や放送といったシステムにふるい落とされていた無数の「発信」がwww上に津波のようにあふれた事である。美術の文脈で言えば、中村ケンゴのwebサイト「SPEECH BALLOON on the web」、kobaru氏による「美術野郎」等が目立った。もう一つ特筆すべきサイトとして古谷利裕の「偽日記」がある。1999年以来ほぼ毎日書き継がれる美術、映画、アニメ、小説などへの思考は一見美術批評など消えたかに見えた当時、唯一のアクチュアルなアート・テキストサイトだった。現在はブログ。<永瀬>

    中村ケンゴ(筆者)が主宰したアート系ウェブサイト「SPEECH BALLOON on the web」は、1996年に公開され、無料提供を受けていたサーバが閉じるまの2005年まで運営された。嶋田丈裕、野中モモ、love the life、丹伊田美沙子(現MISAKO & ROSEN)、實松亮などが参加。筆者は美術手帖1997年5月号「探検!アート系ホームページガイド」のレビュワーとしてサイトをセレクトしたが、当時、現代美術を扱うサイトはまだ数えるほどしかなかった。<中村>


2000年(平成12年)
2000年(平成12年)
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村: 村上隆さんの「スーパーフラット」です。これで東浩紀さんの話もでるかもしれませんが、これ博報堂が出している『広告』という雑誌です。1999年のこの号(11+12月号)で東さんの特集をやっていて、そこで村上さんのスーパーフラットに関する後ろ盾のような記事も書かれています。

永瀬:この年に『STUDIO VOICE』で「ハニー・ペインティング」っていう特集があって(9月号)、基本的にポップ文脈のものなのですが、ここで中ザワさんが重要な対談をされています。

中村:中ザワさんと村上さんの対談があるやつじゃない?

永瀬:そうです。「ヒロ・ヤマガタとは」という対談があります。重要な指摘だと思うのですが、いきなり言ってるんですよ。村上さんの論理で言うならば、ヒロ・ヤマガタが論理的に出てくるはずなのに、なんでそれが抑圧されているのかっていうのを。1行目で言っている。

中村:ヒロ・ヤマガタだけでなく、それこそ日比野克彦(1958-)さんでさえ、批評的にちゃんと定着させてられないですよね。

永瀬:ラッセンとかもね。

中村:…ごめんなさい、俺言うの忘れてた。今思い出して…取り上げてもいいかな?

楠見:どうぞ。

中村:VOCA展の話をしていなかったね。

眞島:あー、忘れてますね。

中村:これ第1回のVOCAですよ。(カタログを手に持って)

永瀬:誰が入ってるの?

中村:これ見ると抽象表現主義的な絵しかないですよ。中村一美さんとか。村上さんの作品がある。(図版を指さして)ここにDOB君がいるね。<中村一美氏がVOCA展に出品しているとする事実誤認がありました。実際には中村一美氏は、「VOCA展の選出形式に異議を覚え、推薦を辞退」されています。まったく逆な情報として文章が掲載されたことに、中村一美氏と関係者のみなさまには大変ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございませんでした。>

眞島:それ何年?

永瀬:1994年ですね。

眞島:そんな前からなんだ。VOCAって。

中村:(カタログを開きながら)今のVOCA展に展示されているような絵なんてひとつもないね。

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眞島:安井賞が終わったのは何年ですか? かぶってるんでしたっけ?(安井賞は1997年第40回をもって最終回。VOCA展は1994年から開催)

楠見:ある意味では安井賞の対抗馬だったのが、安井賞の終了によって逆に継承者になってしまうわけですよ。

中村:当時のカタログ見て思うんですけど、最近のVOCA展の作品はもっと子どもっぽいですよね、変な言い方すると。

眞島:ただ、逆に言うと、2000年前後くらいからのVOCA展は、なぜかポコポコッと現代アーティストが放り込まれて、そしてシカトされる、っていう不思議な構造をもっているじゃないですか(笑)。現代アート系で受賞している人もいるし、もちろんみんな推薦されて出品しているんだけれど、それとは全く関係のないところでVOCA展の批評の体系が成立し続けてきたわけですよね。最近ちょっと変わってきたみたいな話も聞くんですけれど。

楠見:それこそ絵画の復権に対して、新しい理論的支柱を与えようとしたわけでしょう?

中村:でもね、結局奈良さん、村上さんらが切り拓いたものが、単純にマニエリスムに落ちていくっていう。それに対する苛立ちが僕はありますね。急にアニメみたいな絵を描いたりとか、かわいい絵を描いたりとか、そういう話じゃないだろうっていう。

永瀬:それはでも、別にこの時代に特有のことではなくて、基本的にモダンっていう新しいものだけが重要だっていう風潮の中で、ずっと繰り返されてきたことであって。苛立ちとしてはわかるんですけれども。

中村:非常にみっともないことを言ってるなっていうのはわかります。

眞島:それはやっぱり、モダニズムというものは常にキッチュに変質するし、変質しないとモダニズムではない、とそういうことですよね。

中村:本当にしょうもないことを言いました(苦笑)。

楠見:その苛立ちを作品にせよ。そこから新しい美術が切り拓かれる(笑)。

会場:(笑)

中村:えーっと(笑)、スーパーフラットの話に戻りたいんですけれども、東浩紀さん。それでこれはそのままカオスラウンジの話になるのかな? みたいな部分もあるんですけど。一方でこのスーパーフラットっていうのは日本美術ブームみたいなのも対応しているんですよね。山下裕二(1958-)さんらがずっとフォローしていたことが、伊藤若冲(1716-1800)などのブームにつながっていく。また村上さんも辻惟雄『奇想の系譜-又兵衛、国芳』(美術出版社、1970年)を紹介して、これらの日本美術の再発見がスーパーフラットと結びついて行く。
(時間確認で一時中断。2001年へ)
 

奇想の系譜 (ちくま学芸文庫)
奇想の系譜 (ちくま学芸文庫)
2001年(平成13年)
2001年(平成13年)
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:では2001年にいきます。時間的にここで終わりにしますので。

楠見:ようやく21世紀です。

中村:2001年、奈良さんが横浜美術館で大規模な展覧会(「奈良美智展 I DON'T MIND,IF YOU FOGET ME」)、村上さんが東京都現代美術館で大規模な展覧会(「村上隆展 "召還するかドアを開けるか回復するか全滅するか"」)を開催しています。村上隆展で、「美術徹底討論会」というものがあったと…。楠見さん、これはどういうものでしたか? 

楠見:9.11を受けて、緊急討論会をやったんだよね。それで針生一郎さんと、椹木さんと、村上さんと、僕とで話をしたんですよ、東京都現代美術館の講堂で。

中村:これはMOT(東京都現代美術館)の企画ですか? 

楠見:ちょうど村上展の期間中で、そもそも会期中にシンポジウムをっていう話があったのかもしれないけれど、9.11を受けて、緊急っていうことで企画されてすぐに告知されて10月20日に開催された。みんな針生さんが元気なうちに現代の戦争に対して美術が何をすべきか話してもらいたいと思ってたんだね。村上さんはDAICONみたいにもの凄いオープニング映像を作ってきて会場も盛り上がった。ただ、講演の記録が、ないんじゃないかな。見たことがない。

中村:この年に、岡崎乾二郎さんの『ルネサンス 経験の条件』が出ています。眞島さんが、90年代は北澤さんの『眼の神殿』で始まって、岡崎さんの『ルネサンス 経験の条件』によって終わったということを言われていたのですが、それについてありますか?

眞島:『ルネサンス 経験の条件』でスパッと終わったわけではないのですが、日本での90年代の美術と美術批評には、先ほど永瀬さんが仰ったようなポップではないものの流れがあって、それがある種、岡崎乾二郎に集約されるような形で、最終的に『ルネサンス 経験の条件』という一冊にまとまっていったと思うんですね。もともと『批評空間』に連載されていたものですし。とはいえ、そこにはポップなものも含まれているんですね。これは、シンポジウム前に遣り取りしたメールで永瀬さんが書いていたことですが。

中村:その辺の話をして欲しいな。

永瀬:岡崎さんには十分ポップな側面がある。この間東京都現代美術館で行なわれた岡崎さんの展覧会(「特集展示 岡唄テ麩此廖砲硫燭秀逸だったかと言うと、意味内容より配置だと思うんです。つまり抽象表現美術とポップ・アートの間に岡崎乾二郎を配置している。岡崎さんの作品っていうのは形式的に見れば半透明のロリポップ的なディップが立体的に置かれる。あれにポップの反響を見ないっていうのは事実上無理だと思うんですね。岡崎さんは自分のバックグラウンドを簡単に言う人ではないのですが、あの作品を見ると岡崎さんにとってのアメリカっていうのは非常に大きいのではないか。90年代動けなかった僕が原因となるところがあって申し訳ないのですけれども、今日の話の流れで、ポップ対モダンっていうものを対立構造で捉えていたのでは物事が見えてこないだろうなと思います。

中村:議論のなかで、楠見さんのポップと、永瀬さんのモダンが対立しているのが面白いっていう、僕の中ではそういうのがあったんだけれども…。

眞島:区分けとしてね。

中村:そう。僕は村上さんらの世代に影響を受けて、シミュレーショニズムから始めて、2000年代の始めくらいまでは自分をポップ文脈の作家だと思ってたんですよ。でも今は自分の作品をとくにポップとは思わない。ポップと言われることに対して違和感さえある。そして岡崎さんの作品にもすごく惹かれている。その両者の対立っていうか、引き裂かれた感じがずっとあったんですが、今回この企画を準備する中で、永瀬さんが、実は岡崎さん非常にポップだよっていう話を聞いて、すごく癒されたっていうか。

永瀬:癒されても困りますが(笑)。

中村:対立していたのではなくて、要するに結びつくものでもあるという…。

永瀬:先ほど言った、コマーシャルっていうものが非常にクリティカルな文脈で出てきたっていうこととも繋がるんですけれども。要するにコマーシャルであるからどうだとか、あるいは何か『批評空間』的なものを持っているからどうだっていうのは、まったく関係がない。そういう認識こそ、まさにキッチュだと思うんですね。全部フラットに、いろんなものが雑多にあるっていうだけの話であって、そういう軸で考えてしまうと物事見えてこないんじゃないかっていう気がします。2001年に9.11のアメリカでの同時多発テロがあった、あそこで理解できたのは、いろんなものを脱構築する資本主義と言われていたものの内実がアメリカ型自由主義経済、いわゆるネオリベラリズムで、そういうものが一つ限界を迎えたんだっていう見方をすべきだと思います。資本主義っていうのは終わらないですから、人が人と何かを交換しているかぎり。その形態が変わっていくんであって、では、どのような形態を模索するのか。少なくとも芸術は何をモデルなり予感なりとして示せるのか。そういう事だと思います。

中村:じゃあこれで絵画のまとめにいきますか?

永瀬:はい。一番最初に言った、作品論的に言うと、奥から手前へっていう流れがあるのを説明します。

中村:作品の順番はこれでいいですか?(プロジェクションする。まずは中村一美の作品)

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永瀬:はい。中村一美さんっていうのは80年代のモダニズムを象徴した方だと思うんですが、単純に分かるんです。ステインしている。キャンバスに絵具が染み込んでいる。それに対して手前が、残しているのか描いているのかはわからないけれども、ありますよね、斜めの動きが。このことによって何が生まれるかって言うと、奥と手前っていう関係が生まれる。つまりそこに深奥空間が生まれるんですね。基本的な戦後アメリカの抽象表現美術の理解に基づいた作品です。
(プロジェクションする。村上隆の作品)これが80年代までだったとすると、こういうものに対してアンチをもってきたのが、今日わりとメインで話されていた村上隆さんの絵だと思うんですね。いわゆる、奥がなくなる、表面になる。サーフェスになっていく。眞島さんの天ぷらの作品っていうのも、問題としては彫刻っていうよりはサーフェスだと思うんですよ。

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眞島:そうですね。それは確実にそうです。

永瀬:時代状況に確実に対応していたお仕事だと思うんです。これが日本のバブル経済の80年代から90年代初頭の、ある種の達成みたいなものをすごく表象してたなぁっていう気がします。でもですね、やっぱりこういうものが10年、20年続いてきている。2001年にアメリカの同時多発テロが起きているのに、やっぱり「スーパーフラット」っていうキーワードだけでずっといくのはただのマニエリスムだろうっていうのがあって、そのときやっぱり岡崎さんっていうのは大事な存在だと思うんですが。これは2000年代に入ってからの、小さい作品です。

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中村:いいよね、これ。(プロジェクションする。岡崎乾二郎の作品)

永瀬:岡崎さんって、絵画的な仕事でポピュラリティを得ましたけれど、明らかに資質は彫刻家だと思います。あの人が作った作品で「高度だな」って思う仕事は沢山ありますけれど「いいな」って思える仕事は僕は彫刻だと思います。この作品も、明らかに彫刻的な意識で描かれたものです。
どういうことが起きてきているかっていうと、手前に出てきている。画面の手前の再組織化が問題になってきているんですね。画面の奥に観客を誘い込むのではなくて、画面の表面だけを徹底的に磨き上げるのでもなくて、観客の側に出てきている。話が長くてすいません。


    特集展示岡唄テ麩

    2009年から2010年にかけて行われた東京都現代美術館MOTコレクション展の一部として行われた。2006年に大竹伸朗、2011年に名和晃平の企画展が行われた同館で岡崎展がなぜ企画展として開催されなかったのかは大きな謎だが結果的に良展示になった。初期の「あかさかみつけ」シリーズ、「Yellow Slope」「Blue Slope」といった彫刻作品が見られたのは貴重。<永瀬>

     

    中村一美

    1956年生まれ。80年代日本における抽象表現主義受容の象徴的存在。今必ずしも大きな注目を浴びているとは言い難いが、2000年代になっても「存在の鳥」シリーズなどで本来の実力を示す力作を生産しており、率直に作品を見直すことのできる時代になってきたと思える。<永瀬>



ネクスト・ステップ
中村:…ようやく、我々は21世紀まできました。昨年は東日本大震災もありました。原発事故で東京はいまだに被災地でもあります。それでネクストステップの話をして終わりたいと思うのですが、今回の議論、とくに90年代の前半はインターネットがまだなくて、話していることも口述伝承みたいなものじゃないですか。ところが今ね、ツイッターもあって、フェイスブックもあって、今回もこんなに沢山の人がいらしてくれたのは、僕のツイッターのステマのおかげだと思うんですけれども(笑)。こうやってあらゆる記録が残る時代の美術史っていうのは、たとえば30年後も美術史があるとすれば、どういう風になっているんだろうなあと思ったりもするんですけれども。

永瀬:今日の文脈で言うと、この名前に触れないわけにはいかないなと思うんですが、カオスラウンジっていう運動体がある。僕は彼等に嫌われているらしいので、こんなところでこんなことを言うのになんの意味もないのですが、僕は評価をしています。どう評価をしているかって言うと、二つ。現実的な意味では、皆さん、多分ここに来ている方はご存知だと思うんですが、ネットの成果の搾取ではないかと叩かれたんですね。その叩かれた理由はとてもよくわかるんですが、彼らは叩かれている間に延々と展覧会を繰り返す。展覧会をやめなかったっていうのは、一つ作家として僕はリスペクトします。二つ目、黒瀬陽平さんという方が今どういうプランをお持ちか分からないんですけれども、かつて椹木野衣と岡崎乾二郎を繋げる仕事をしたいっていう話をなさったって聞いています。これは一つ、興味深いイメージじゃないかなと思います。それは単に岡崎乾二郎をポップの側面で評価しようとか、たとえば椹木野衣を文芸評論家として評価しようとか、っていう話じゃないんですよ。先行するあの二人を理論的にも実践的にも止揚していくヴィジョンっていうものをもし描けて、それを実現できる人がいたら、それはネクストステップだと思います。

楠見:かつてのものが思わぬ形で今に引き継がれているっていうのは感じることがあって、その意味ではポップ対モダンの対立も既に過去のものになっているという感じはするんですよね。

永瀬:あともう一つ。潮流っていうものが今日テーマだったので追っかけざるをえなかったのですが、潮流っていうものとまったく関係なく、自律した自分の体系を作っていくっていうのが、僕は基本的にアートっていう仕事だと思います。

中村:そういう意味で最初にあえて「流行」ってことばも使ったんだけど。

永瀬:今何が流行っているからこれである、次のステップはこれであるからこれをやるっていう仕事をやっている以上は、多分芸能のレベルでしかないだろう。芸術のレベルになるっていうのは、自分の体系を作るっていうことなんだと思うんですよね。 二つ事例を挙げたいと思うんですが、こういう団体が2001年にはじまりました。ART TRACEで、林道郎さんの「絵画二度死ぬ、あるいは死なない」っていうセミナーが行われたんです。当時の文脈で言ったら、サイ・トゥオンプリ(Cy Twombly/1928-2011)とかブライス・マーデン(Brice Marden/1938-)とかをこういう形で紹介するとか、全然潮流としては無い。後にまとめられて出版されます。しかもこれコマーシャルじゃないんですよ。若い作家たちが自分たちでお金を出して作った本なんです。こういう本が今に至るまで売れ続けている。
それからもう一つ、photographers' galleryっていう写真家の自主運営ギャラリーが新宿の2丁目で活動を開始したのが、やっぱり2001年です。これは新しい号ですけれども、2002年に『photographers' gallery pless』っていう本が出ている。これも別に企業からお金をもらってるわけじゃないんですよ。自分たちで一生懸命広告を集めて、10年間10冊出している。何してるかって言うと、マイケル・フリード(Michael Fried/1939-)に直接インタビューに行く。ユベルマン(Georges Didi-Huberman/1953-)に直接インタビューに行く。そういうことをまったく潮流と関係なく延々やってきた人たちっていうのが、今一つ成果を発信している。

中村:90年代沈黙していたように見えたけれども、実はその準備が今ここで花開いているっていう言い方もできる?

永瀬:花開いているから偉いんじゃないんですよ。わかります?

中村:失礼しました(笑)

永瀬:花開かなくても、偉かった。僕が今日言いたかったのはほとんどそれで。流れ、時代と呼吸するっていうのはアーティストにとってとても大事なことであるんですけれども、それだけではないんだということです。

中村:原発の話にもどりますが、一体本当はどうなっているのかが僕らにはわからないじゃないですか。自分たちで色々判断しないといけない状況になってしまった。そういうなかで、永瀬さんが言ってたんだと思いますが、やっぱり「モダンな主体」っていうのは必要なんじゃね、みたいな。それまでは動物化、動物化って言ってたのですが。

永瀬:原発の事故が起きたときにはっきりしたのは、自分で考えざるを得ない状況が生まれたんですよ。環境管理っていうことが言われていたときには、情報は環境によって与えられるんだ、だから人が自分で規律訓練的に考えるのではなく、人を適切に誘導するアーキテクチャが重要だっていう論理があったんですけれども。

中村:だから僕たちね、ユニクロ着て、イオン行って、それで人生事足りるじゃんみたいな話も震災以前にはあったんですけれど、それじゃいかんなっていう。

永瀬:経済状況がこうでしょう? 明日ご飯食べるのどうしようっていう話ですよね。お金持ちになるか貧乏になるかというよりも、お金持ちであろうと貧乏であろうと、今日なり明日を生き抜いていく。自分の価値体系とか、現実的な生活上の方法論とか、技術とか、お金の管理の仕方とか、そういうことって大事になってきている。

中村:よく言われるけれども、アートとか、哲学とか、そういうのは男の、しかも独身者の言説でしかないって話もあるじゃないですか。それで永瀬さんが言っていてすごいいいなぁと思ったのは、子育てするお父さんの芸術とかね、働くお母さんの芸術ってあんまりないでしょ?

永瀬:その話今日言えなかったんだよな。

中村:やっぱり美術を起点にして、別に美術家になるんじゃなくても、官僚になるとか、お医者さんになるとか、そういうことが必要じゃないのかなっていう。

永瀬:アートを子育ての現場にとかっていうヌルい話じゃないのです。出産を含めた、性あるいは生、死というものを20世紀形のヒューマニズムから一度解放して再検討する。人工授精とか人工子宮から安楽死まで含め、リプロダクション、再生産っていう問題はもはや既存の社会学では扱えない、芸術あるいは哲学レベルで考えるべき問題だと思うので。これは場を改めていずれと思います。

中村:東北芸術工科大学の宮本武典(1974-)さんがツイートしてたんだけれども、自分の教え子たちにアーティストになれとは言わないと。公務員になって欲しいって書いていた。地元で公務員になって、山形を救えと。美大を出て。

眞島:分かるような、分からないような。

永瀬:アーティストとして食べて行くっていうことに対して、眞島さんのご意見が伺えればと思うのですが。

眞島:私は、アーティストとしてのみで食べていません。それを前提として、身も蓋もない話をしてしまうと、例えば一年間に現代アートと呼ばれるものに支払われ得るお金の量って決まっていると思うんですよ。これは、足し算すれば分かります。アーティストとして食べていくというのは、要するにその数字を何人のアーティストに対して、どういうふうに分配するかってことであって、リアルな数字が出せるはずなんです。でも多分今まで、それがきちんとやられたことは一度もない。かつての画壇というのは、それをやっていた場所なんですね。だから、そこにははっきりとした階級、年功序列だけではないけれども序列があり、それこそ号単位で何万円っていう計算が成立したわけですよ。そういうものは、経済というのはもちろん実体的にも動いているわけだから、現代アートにもあるはずなんです。ただそれには、ちゃんとした調査が必要になりますよね。なんとか総研にやってもらうか、みたいな。

中村:オランダの経済学者の本で、ハンス・アビング『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』(山本和弘翻訳、grambooks、2007年)っていう本がありましたね。

眞島:結局のところ、どういう風に分配されるのかっていうことだと思います。アーティストとして食えるかどうかは、実際に何人が食えるのか、その数字を出さないと何とも言えない。だから、それは出した方がいいと思います。出した上で、やるかやらないかっていうのは、また別の話なので。そんな風に考えてます。
まとめ的なところを言うと、私が一番面白かったのは、ポップ対モダンっていうのが見せかけの対立だということ。そして、ポップの潮流があるところの下に、モダンの流れがあったということ。でも、その対立構造は偽の構造であって、これは要するに代理戦争的なものだと思うんですよ。対立する必要がないものを対立させることで、何らかの活動をしていることにしましょう、という部分があって、じゃあ何がそれをさせていたのかと言うと、権力が不在だったというのが一番大きな問題。

中村:つまり、自社連立政権がありえるの?(笑)

眞島:え? 何が?

楠見:つまり冷戦構造と似ているんだよね。

中村:そう。そういう話。

眞島:3.11以降に一番明らかになったのは、原子力という権力が、とてつもない権力があったんだということだと思うんですよ。多くの人が改めてそれに気がついた、というか初めて知った。そのときに、モダンなもののポップな側面を見直すとか、反対にポップなもののモダンな側面を見直すとか、そういうことをしても余り意味がないんだろうと思います。で、岡崎乾二郎がどうポップなのかについては色々と議論する必要があると思いますけれど、結局その偽の対立そのものを、もうどうでもいい、とポイッと捨て去る場として岡崎乾二郎というものが召還され続けたのが90年代だった、後半は特にそうだったんじゃないかと、今は思うんですね。
だから、本当にそれを結論としていいのかどうか分からないけれど、『ルネサンス 経験と条件』という本が90年代を閉じる役目を果たした。で、それが一般的なものとしてさらに展開するなら、展開するっていうのは新たなステージに行くんじゃなくて、岡崎乾二郎的なもの、つまり見せかけの対立を無効化するようなものが、延々と実践され続け得るのか。そうした実践をマニエリスムに陥ることなく継続できるのか。かなりチャレンジングなところだと思うんですよ。
それで、その次元でアーティスト・サバイバルを考えるなら、公務員になれっていうのもそういうことの一つかもしれないですよね。見せかけの対立のどちらかに与して、あるいはその時々に立場を変えながらアーティスト的に振る舞っていくというのではなく、そうした対立が止揚された状況自体を実践していく。それを単純にやっていくことができるのか。だから、子育てのアーティストというのは、子育てをアーティストの側から見直すというような話ではないってことですよね。そんな気がしています。そういう動きは出てきてるだろうし、自分もそうなっていく必要はあるだろうな、と。

中村:そろそろ時間なんですが、一言ずつ言いたいことがあれば言って下さい。

楠見:アーティストが公務員になるって文脈がよくわからないんだけど……。でも、いまなんとか咀嚼しながら思うに、それで世の中が変わるかもしれないなと。なんかとんでもないゲリラが……。

中村:あ、そっち?(笑)

楠見:うん。芸術という特殊技能をもった工作員が公務員として社会に送り込まれる、ってそういうこと?

中村:すごいね、それ。使徒侵入みたいな……。

楠見:でも本当はそういうことにはならない(笑)。まあ、いいんですけど。ただ、いろんな形でアートに関わっている以上、アートが世の中を変えるっていう、ある種の欺瞞っていうか思い込みって言われるかもしれないんだけれど、そういう自負って必要だと思っていて、それが無ければ、何も変わらない。アートは別に社会を変えなくていいのだ、っていわれてしまえば、まぁそれまでという話でもあるんだけれども。ただ、少なくとも芸術の根幹となる動機の部分において“現状に満足できない”っていうものがあるとしたら、そのフラストレーションをアクションに起こしていくことがアートだと思う。今日ここで過去を少しずつ振り返ってきて、思わぬところが何か思わぬところに繋がっているっていうのが僕自身見えてきて、それが面白かったんですよ。そんな形で多分いま現在起きていること、やっていることが、いつかとんでもないところに繋がっていく──その可能性をアートのもつ力として信じていいかなという気があらためてしました。

永瀬:今日一日をどうやって生きていくか。芸術っていうものが、単にキャリアメイクの道具ではなくて、どう生きていくかって考えること自体が芸術なんだと思います。自律した体系っていうのは単に単独で完結してスタンドアローンでっていうモダンなものじゃなくて、自律したところで代謝が始まるはずなんです。あるいは代謝し続けなければ自律できない。ボルボックスとかゾウリムシとか微生物が常にそうであるように、常に代謝し続けることによって自律しえる。自律することによって代謝できる。コミュニケーションと自律を対立構造で考えるのではなくて、お金をどう調達するのか、画材をどう調達するのか、発表の場をどう調達するのか、作品をどう構築していくのか。それは一つのトータルな組み立て行為であって、それがつまり芸術なんだと。それを自覚的に進めていくのが芸術家なんだと思うので、そういうことが言いたかったです。

眞島:最初に挙げた二つのキー、シミュレーショニズム、それから日本の近代美術に対する批評に繋げて言うと、日本の近代美術史、あるいはその批評史というコンテクスト自体をシミュレートすることで続いてきた部分が、ポップにおいてもモダンにおいても90年代はあったと思うんですね。それで、シミュレーショニズムと聞いて私の中でぱっと思い浮かぶのは、たとえばシェリー・レヴィン(Sherrie Levine/1947-)の写真だったりするんですが、あれは歴史的、批評的なコンテクストをもちろん持っているんだけれど、具体的な対象物がある。つまり、何をシミュレートするか、その何っていうのがはっきりしている。日本の90年代って、実はそれがあんまり強くなかったような気がしているんです。 本当に最近の例でいうと、Chim↑Pomの《LEVEL 7 feat.明日の神話》(2011年)。あれが何をシミュレートしているか、何をモデルとして使っているかは明らかですよね。

中村:渋谷駅の岡本太郎の壁画(《明日の神話》1968-1969年)ですね。

眞島:それから、「指差し男」。なぜかヴィト・アコンチが出てくる。ヴィト・アコンチが現代日本の文脈にいきなり投げ込まれる。ああいった形のシミュレーショニズム的な経験って、実は90年代にはあまりないんですよ。少なくとも、私が私が知るかぎりでは。この辺に新しい動きがあるはずだし、そこからポストコロニアル的なものとか、カルチュアル・スタディーズ的なものと呼ばれていたものが、具体的な実践として可能になった時代が来ている気がします。

中村:ありがとうございます。時間もあまりないので、質問コーナーにいきたいと思います。なにかありますでしょうか? はい、どうぞ。

質問者1:僕は知り合いから紹介されて来たんですけれども、90年代、平成元年から2001年までの話を聞いて感じたことは、自分も豊かな国なかで育ってきた。わがまま言って留学とか、美術大学行ったようなくちですが、そこで自由な4年間をもらえた。だけど、その間にも世界は冷戦がありました、オイルを巡って戦争がありました、それが終わった後に国内でも地震があったり、オウムっていう内部崩壊があって、この2時間でね、その中でいろんな美術の動きがあったあったんだなぁと。その裏には見えていないけれども、こういう動きもあって、こうやって顔を出すんだなぁというのがあって。それで最終的には、去年震災が起こって、原発事故が起こって、ついに自分たち一人一人に突きつけられている現実があって…、こういう20年だったなっていうのがすごくよくわかったので、色んな対立構造の話とか難しい話とかがあったけど、非常に面白かった。

中村:まとめサイトみたいな話だ(笑)。

永瀬:彼が言っているのはシリアスなことだと思います。豊かだと思って育ってきた我々、つまり90年代を活動してきた人間っていうのは、豊かに育ってきたと思える最後の世代の人間だと思うんです。それが、豊かではなくなってきつつある、明らかに。今後どんどん日本っていう国は豊かでなくなっていくでしょう、おそらく状況的に。そのときに、ある種の責任ではないんですけれども、どうするかっていうのを、それこそ子どもたちにも見せなきゃいけない状況がきているし、先生であれば生徒たちにも何かしら伝えていかないといけないっていうのはあるはずです。

中村:僕たちは今40歳を過ぎて、なにかしら美術に関する仕事をしていますけれども、やっぱり日本がすごく豊かだったからなんとなくここまで来れてしまったんですよね。僕らと同じやり方を、今の学生さんがやって、90年代のように作品を作り続けられるのか? ありえない。

眞島:私たちの世代は、階級っていうものを意識せずに過ごせた最後の世代だと思うんです。その視点から言うと、私たちは粛正されるべき存在として映る可能性が大いにあります。と言うか、若い世代から見ればそうだろうと思います。たとえばそれは、今の年金生活者がどれだけ貯蓄を持っているか、みたいな形で語られているけれども、実はここにも断絶がある。繋がってはいるけれど。
で、ちょっと90年代の話に繋げていうと、スーパーフラットっていうのは階級意識がないんですよ。良いとか悪いとかの問題ではなくて、非常に特徴的な性格として、階級というものが全く見えない。一億総中流と呼ばれたものが基盤になっていて、その意味では90年代に私たちが持っていた階級意識のない階級制に立脚している。

中村:階級の話で言うと、今日なんだかんだで世代論をしてしまったと思うんですけれども、今の若い人たちには世代論が通じなくなっているんじゃないか。

永瀬:僕たちでも明日お金に困るわけじゃないですか。それは20代と条件はほぼ変わらなくなってきている。

楠見:世代論っていうよりも、もっと大きな断層っていうか、スーパーフラットが言われ始めたすぐあとにITバブルが崩壊してアメリカも日本も不況になって、むしろ格差社会っていう言葉の方が時代を語るキーワードになったわけじゃない?

中村:だから、僕らは一応全員日本人で、男ですよね。今日は(登壇者に)女性がいなくて、それもよくないと思うんだけれど、一億総中流っていう意識があるかぎりにおいては、世代論が通じるんですよ。むしろこの中で人種が違う人がいたりとか、宗教が違う人がいたりすれば、世代論は全然できない。つまりこれまでの僕らは世代論が通じる時代に生きていたということだと思います。

永瀬:社会分析的なことは多分、ここで我々がやっても生産的じゃないという気がする…。

中村:ごめんなさい、そうですね。

永瀬:一つ作品に即して言うと、さっき言った絵画の流れの中で、「手前」って単純化して言ってしまったんですけれども、どういうことかと言うと、作品が手前の空間(世界)を作り直していくっていう一つ流れだと思うんですね。梅沢和木(1985-)さんっていう方がいらっしゃるじゃないですか。

中村:梅ラボ君ですね。

永瀬:あの人の作品が特徴的なのは、村上隆さんの影響を強く受けている方なのですが、彼はフラットじゃないんです。あれはPhotoshopっていうソフトを扱ったことがある人なら理解できますが、ほとんど数百のレイヤー構造に見えてくる。一つの平面ではなくて、無数の階層構造がそこに出てきていて、一つの階層と一つの階層がどんどん差異化を生んでいく、空間を作っていく、世界を作っていく、そういう構造をもっている。作品が社会の反映としてあるだけではない、作品が世界を再組織していく側面がある。だから僕は評価しているんですけれども。

眞島:レイヤーを統合する瞬間、それこそがスーパーフラット的な感性だと、村上隆は言っていましたよね。

永瀬:それはすごいナショナリズムの話になってきて危ないかもしれない。

眞島:確か、そんなことを書いていたと思います。

中村:レイヤーを統合することが、ナショナリズムに通じる…面白いなそれ。面白いんだけどこの話するとまた終わらないよ(笑)。他にありますか?

質問者2:世紀末っていうのはいつからいつまでですか? 世紀末っていうのは20世紀末っていうことで今日お題になっていましたけれど。それがいつからいつまでっていう風に認識されているのですか?

中村:一応今回は90年代、2000年までですね。 質問者2:世紀末っていう括りでいうとね、ググるとさ、1966年からだったりするわけよ。世紀末っていうのは。それがさ、1989年からっていうのはどういうことなのかなって。

眞島:20世紀末は、文字通りに取れば1991年から2000年までの10年間のことで、いわゆる世紀末のことですけれど、日本では0に戻ったところから新しく始まるという意識が強いので、その場合だと1990年から1999年までを指すこともありますね。

楠見:今20代の人には多分わからないと思うんだけど、僕とか90年代当時、いま自分たちは20世紀末を生きている、しかも千年単位の世紀末を生きているんだっていう自覚がものすごいあったんですよ。西暦カウンターの桁が四つ一緒に回ろうとする瞬間を、俺たちはいま迎えようとしている。その中に、いろんな政治的な事件や、経済的なこと、ある文化的な変容があったりした。なんかそれ引っ括めて世紀末だったと思うんですけどね。むしろその意味では時代じゃなくて、その感覚というか、その意識の中のほうにいわゆる“世紀末”があったんじゃないかって僕は思いますね。

中村:ほか、ありますでしょうか。…ないようですので、そろそろ終わりにしたいと思います。今日はこんなに沢山の方に来ていただいて、また貴重な話を皆さんから伺うことができて、本当にやってよかったなと感じています。片付けながらですけれども、皆さんお酒を飲みながらでも、登壇者の皆さんとこのままお話してもらってかまいません。自由に解散したいと思います。

楠見:紹介できなかった貴重な資料も色々とあります。

中村:そうですね。今日は皆さん本当にありがとうございました。

<テープ起こし・最終校正:小金沢智>

    自分で考えざるを得ない

    言葉足らずだったが、環境管理論で語られた「個人が規律訓練的に自分で判断し行動しその責任を自分で追う、という“モダンな主体”はあまりに個人への負荷が重い」という指摘は今なお有効である(むしろ震災後顕著になった)。同時にやはり政治やインフラにおけるガバナンス(統治)は酷い水準なのも露呈した。ではどうなるか。踏み込んだ言い方をすればある種の宗教性が回帰する可能性もあり、そうなるとモダンどころかプレモダン的風景が再帰する危険がある。<永瀬>

     

    ART TRACE

    会場では間違った紹介をしてしまったが、2001年に活動を開始し「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」の元になったセミナーは2002年。出版は2004年である。2011年には本格的な美術理論誌ART TRACE PRESSを発刊し、それに併せて各種イベントを開催するなど活発。NPO法人としてその射程は状況に流されない作家の独自ネットワークによる相互扶助・制作支援といった所にまで届いており興味深い。<永瀬>

     

    photographers’gallery

    写真家北島敬三を中核として持つが、それ以外は若手の写真家達による。2001年活動開始。会場で取り上げたphotographers’gallery pressも無論重要だが、目覚ましいのは所属作家の作品の水準の高さである。最近ではニコンサロンで発表された笹岡啓子による東北の震災被害地域の写真が決定的なものになった。他の所属作家も瞠目すべき作品をプリントしている。個別の評価はそれなりにメディアに載るようになったが、10年を超える発信を考えればそろそろその写真史的重要性を踏まえた評価が必要。<永瀬>


    Chim↑Pom『LEVEL 7 feat.明日の神話』

    この作品については既に様々な議論が交わされているが、大方は「岡本太郎論」の文脈に沿ったもののように見える。筆者の関心は、この作品が公共の場に常設された壁画の公共性と常設性への直截な批評になっている点にあり、それが「岡本太郎神話」とでも呼ぶべき言説(の政治性)を補強するものに終わってしまうなら、残念と言うより他にない。 http://chimpom.jp/?p=custom&id=13339952<眞島>


    「指差し男」

    「指さし作業員」のこと。2011年8月に、福島第一原子力発電所構内に東京電力が設置したライブカメラに向かって右手人差し指を突きつけるパフォーマンスを行った。『ポータブルマインド』(2008年)、『ふるさとの合成』(2010年)などで知られるアーティスト竹内公太がその正体と目されるが、真相は「公然の秘密」とされている。<眞島>


    ヴィト・アコンチ

    「指さし作業員」のパフォーマンスはアメリカ人アーティスト、ヴィト・アコンチ(Vito Acconci)のビデオ作品『Centers』(1971年)を参照している。<眞島>


    レイヤーを統合する瞬間

    「社会も風俗も芸術も文化も、すべてが超2次元的。(中略)そのフィーリングを説明すると、例えば、コンピュータのデスクトップ上でグラフィックを制作する際の、いくつにも分かれたレイヤーを一つの絵に結合する瞬間がある。けっしてわかりやすいたとえではないが、そのフィーリングに、私は肉体的感覚にきわめて近いリアリティを感じてしまうのだ。」“Society, customs, art, culture: all are extremely two-dimensional. ... One way to imagine super flatness is to think of the moment when, in creating a desktop graphic for your computer, you merge a number of distinct layers into one. Though it is not a terribly clear example, the feeling I get is a sense of reality that is very nearly a physical sensation.” 村上隆「Super Flat宣言」(2000年)<眞島>




金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか
金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか
映像記録

20世紀末・日本の美術 ーそれぞれの作家の視点から <前半>
2012年2月24日 MEGUMI OGITA GALLERY
ビデオ撮影:亀井誠治


20世紀末・日本の美術 ーそれぞれの作家の視点から <後半>
2012年2月24日 MEGUMI OGITA GALLERY
ビデオ撮影:亀井誠治

書籍化
20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から
copyright: Kengo Nakamura All Rights Reserved. http://www.nakamurakengo.com/


20世紀末・日本の美術
ーそれぞれの作家の視点から
企画:中村ケンゴ
企画協力:MEGUMI OGITA GALLERY
音響機材:NORISHIROCKS
椅子提供:Civic Art
記録:小金沢智
ビデオ撮影:亀井誠治
販売協力:原花菜子
登壇者
眞島 竜男/現代美術作家
永瀬 恭一/画家
中村 ケンゴ(司会)/美術家
楠見 清(ゲスト・コメンテーター)/美術編集者・評論家
目 次
年表作成の為の参照文献
<年表作成の為の参照文献>
BRUTUS 2008年2/15号『すいすい理解る現代アート』/美術手帖 2005年7月号『日本近現代美術史』/山内崇嗣の美術史年表wikipedia『1990年代』FUKUSHI Plaza 『20世紀略年表』
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