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20世紀末・日本の美術


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1993年(平成5年)
 1993年
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:1993年は、はじめて自民党じゃない野党の連合政権が生まれます。細川護煕首相だったんですね。僕は細川首相になったとき、すごいわくわくしたのを覚えていて、なぜかっていうと細川さんっていうのは細川コレクションというたいへんな日本の美術のコレクションをもってらっしゃるお殿様で、首相官邸にあったそれまでの絵を全部外して、自分の好きな絵に替えたんですよ。そんなことをやる日本の首相は初めてだと思ったので、「アートが分かる総理大臣がきた」なんて思ってたんだけど、次の年には自社連立政権という、わけのわからない展開になるという…。ダイムラー・クライスラーよりびっくりしましたよ僕は(笑)。

楠見:誰が首相になっても世の中変わらないっていうのはその辺から始まってるんじゃないの。

中村:で、1993年何がありましたかっていうと、中村政人さんの「ザ・ギンブラート」。アーティストたちが、銀座通りを神輿でガーッとやるっていう。

楠見:神輿の上には宇治野宗輝(1964-)さんが乗っていますね。

中村:それで、白バイまで来ちゃう騒ぎになったのですが、このあとに「新宿少年アート」っていうのも翌年の1994年にあるんですね。

楠見:「ザ・ギンブラート」というのは当時20代のアーティストたちによる銀座の画廊界に対する叛旗だったんです。「新宿少年アート」はその勢いがさらに都市のカオスたる歌舞伎町に飛び火した瞬間でした。

中村:そう、これは(小沢剛さんの)「なすび画廊」ですね(プロジェクションする)。銀座のなびす画廊ってご存知ですか皆さん? なびす画廊のあるビルの下の道路に牛乳箱を置いて、なすび画廊っていって、この箱のなかで誰かが個展をやるっていう。この画像はピーター・ベラーズ(Peter Bellars/1959-)の個展なんですけれども。 ともかく発表する場所がないんですよね。発表する場所がないもんだから、街で暴れるじゃないですけど、ストリートで作品見せるとか、そういうことをみんなやってるんです。あと、「中村と村上展」っていうのもあって、中村政人さんと村上隆さんが一緒にソウルや大阪のラブホテルを使って展覧会をした。あと中ザワヒデキさんなんかも加わって、「マラリア・アートショー」なんていう、クラブでも展覧会をやるんですね。当時発表する場所といえば、貸画廊しかなかったわけで、でも貸画廊なんかファックだから、自分たちで勝手にやってやるぜ的な。当時のクラブカルチャーとも融合して、いろいろ面白いことが起こってるんですけれども。

楠見:当時の若手のデビューの仕方といえば、必死にバイトしてお金貯めて貸画廊で個展やって、それで『美術手帖』のレビュー欄にとり上げてもらうという方法しかなかったんですけど、なんかそういう駒の進め方じゃないだろうというオルタナティヴな発想が一挙に噴出した。

中村:それまでとは違うアーティスト・サバイバルをアーティストたちが考え始めたんですよね。お金出してギャラリーを借りる、なんかちゃうんじゃないのそれって。ストリートから出来んじゃねえのみたいな。須田悦弘(1969-)さんもトラックに作品を乗せて銀座のパーキングに停めて作品を展示するみたいなことをやっていた。

眞島:あれは、貸画廊を借りて展覧会をやろうと思ったら、ずっと先まで予約で埋まっちゃってて仕方なくやった、みたいな話でもあるんだよね。

中村:今じゃあありえない。須田さんなんて細かい彫刻している人がだよ、トラック乗り付けて、みたいなそういうノリ、こういうのって、YBA(YOUNG BRITISH ARTIST)なんかにも繋がるものがあるんじゃないかなと思うんですが。

眞島:その辺の話を今考えてたんですけど、「フリーズ」っていう展覧会が80年代後半にロンドンであった。ダミアン・ハーストが学生の頃に組織した若い作家のグループ展です。私は実際には見てないのでイメージでしか語れないのですが、コマーシャルギャラリーよりもプロフェッショナルにオーガナイズされた、多分すごくきちっとした展覧会だったと思うんです。

中村:学生のくせに?

眞島:それで、そういうやり方がイギリスの中でインパクトを持ったのに対して、「ザ・ギンブラート」や「新宿少年アート」っていうのは、私は1994年の「新宿少年アート」は見ていて、でも今ひとつ感覚として掴めないところがあったんですけれども、これは要するに60年代のネオ・ダダであるとか、あの時代の日本のアヴァンギャルドをもう一度呼び起こしたっていうところがあるんじゃないかと思うんですよ。

中村:YBAに近いっていうよりは、どちらかと言うとそういう日本のネオ・ダダイズム・オルガナイザーズみたいな…。

眞島:状況は似ているんだけれども、そのときに何を引っ張りだして、何をスタイルとしたかっていうのは全く違った。

楠見:イギリスにはサーチコレクションがあったから、要するに「フリーズ展」をやることによって、サーチに買ってもらおうっていう。

眞島:そういうのは確実にあったと思います。コマーシャルの意識が最初からあった。

中村:コマーシャルの意識があるロンドンと、貸画廊なんて…と思っている東京、だいぶ辛いね、なんか(笑)。

眞島:ただ、若いアーティストの動き方の根本の部分では、ほぼ同じようなメンタリティーがあったはずです。

永瀬:ここで口挟まないと言えなくなっちゃうんで言っちゃうんですけど、僕はこの流れに乗ってなくて、1989年に入学して1993年に卒業するまで何をやっていたかっていうと、大学の演劇部にいました。絵を描かずに、延々演劇をやってたんですね。

中村:当時は「第三舞台」とか?

永瀬:「第三舞台」を含めた小劇場ブームが一段落してました。青年団等が出るまでの谷間の時期で、僕らは造形大で役者が全員自分で自分の出るところを台本書いて、パッチワークみたいにセッションを繋げるみたいなことやってたんです。まぁその内容はどうでもいいのですが、大学の演劇部の名前が「エディット」だったんですよ。

楠見:ああ〜。

中村:なるほど、なるほど。

永瀬:演劇をやる人間にも編集っていう言葉が非常にクリエイティブに響いた。大学の演劇部ですよ? なんかすごいドロドロしてそうじゃないですか?

中村:僕多摩美の演劇部だったけど、ドロドロしてたかも(笑)。

永瀬:あ、そうなんですか!(笑)。パネル借りに行ったりしました。そういうちょっと外から見たら、「え? ポップとか編集とか興味ないんじゃないの?」って言われる集団の名前に「エディット」って名前が付く状況がありました。

楠見:それに関して言うと、ダムタイプも元々は「劇団ザ・カルマ」っていう小劇場劇団だった。当時、新しい何かを集団でやるには小劇場は発表しやすいプラットフォームだったんだけど、それゆえ演劇以外の別の何かが混入して変質してきた時期だったと思う。

永瀬:80年代の小劇場ブームってテレビが仮想敵で、いかにテレビ的なものをそれこそ劇場に導入するかっていうのを、先に出た「第三舞台」、あるいは「劇団ショーマ」とか、「劇団新幹線」っていう人たちがやってました。自己内面表出的な、アングラ的なものとは違うもの、ポップなものを持ち込むっていう手法が、1989年、1990年、1991年くらいに一段落つきつつあったみたいな展開だったと思います。

中村:『美術手帖』でもボディ・アート特集で「バパ・タラフマラ」扱ったりしてますよね(「特集ボディ&アート進化論 きたるべきハイパー・パフォーマンス時代」、1992年1月号)。ところで、1993年頃は、ポリティカル・コレクトネスのアートっていうのも流行っていました。バーバラ・クルーガー(Barbara Kruger/1945-)とかフェミニズム系のアートもありましたよね。まだマルクス主義の残照があるというか。

眞島:時代としてはもうちょっと後なのですが、今回のシンポジウムにあたってちょっと疑問に思ったことがあって。90年代の批評一般を考えたときに、ポスト・コロニアル理論、そしてカルチュラル・スタディーズっていうのが大きくあったと思うんですが、それが日本のアートシーンにストレートに反映されたケースってあまりないと思うんですね。

中村:そりゃあ思うでしょうね、イギリスから帰ってくりゃあ。

眞島:まあ、連中が始めたものですから、それはそうなんですけれど。これはあとで話せればと思いますが、21世紀以降になってから、その辺が少しずつ繋がってきているような。

中村:今の我々にとって切実な問題として話せる。

眞島:だからこの時点では、それこそバーバラ・クルーガーの作品なんかにしても、そういう観点からはほとんど見られていなかったと思うんですね。シミュレーショニズム自体の受け取られ方が変わっていった、その過程が90年代なのかなと。

中村:これバーバラ・クルーガーの有名な作品(プロジェクションする)、ユニクロのTシャツにもなっていますけど…。

楠見:これすごい皮肉的ですよね。

中村:「我買い物するゆえに我あり(I shop therefore I am)」。これユニクロで売ってて、…なんかすごい感じがするんですよね。これ着て普通に買い物とか行っている家族とか見ると。

楠見:消費社会をアヴァンギャルドの手法で風刺した作品が現代日本の量販ブランドの商品になるなんてありえないでしょ。バーバル・クルーガー、よくOK出したよね。ところで、90年代にはエイズ差別撲滅キャンペーンをニューヨークのアーティストたちがやっていて「エイズ・デモグラフィックス」と称されたんだけど、今日本でイルコモンズ(小田マサノリ)さんがやっている反原発のグラフィカルなデモンストレーションは「反原発デモグラフィックス」とでもいうべきものなんじゃないかと。クルーガーもエイズ・デモグラフィックスもある意味20年かかってようやく自分たちのものになった、そんな気がしますね。

永瀬:なんでイギリスと日本でそれだけ差があったかというと、バブル崩壊っていいつつ、実はこの頃まだ、いまだに一億総中流っていうイメージは残ってたんですよ。

中村:いや、僕ら余裕ぶっかましてましたよ。

永瀬:そうなんです。今から就職氷河期だぞ云々って言い始めたにもかかわらず、どこか危機感の薄いイメージがあったので…。

楠見:バブルが弾けたっていうことになかなか気づけていない(笑)。

永瀬:実感がない。差別とか社会的な格差とか暴力とかが、日本の社会の中で、今こそ切実になってきましたけれども、この当時はなかった。

眞島:冷戦について言うと、資本主義陣営の勝利っていうイメージが未だにあったんだと思います。

中村:世界平和が来るんじゃないかって思ったもんね(笑)。ソビエト無くなって。

眞島:そういう感じがあったのは確かだと思います。どの程度信じていたかは分からないけれど。

中村:次行きますね。キーファー(Anselm Kiefer/1945-)がセゾン美術館で展覧会(「メランコリア-知の翼-アンゼルム・キーファー」)をやっています。

永瀬:僕このとき佐賀町エキジビットスペースに初めて行ったんですよ。

中村:佐賀町エキジビットスペースでも同時開催してますね。

永瀬:今、平和っていうのが一つ引っかかったんですけれども、クウェートの戦争っていつくらいでしたっけ?

中村:1991年です。

永瀬:そうですよね。柄谷さんが文学者のアピールを出したにも関わらず、遠い海の向こうの戦争ではあったのですが、予感っていうか、何か崩れるのかなっていうイメージは、ちょっとあった。

中村:平和になるのかなーと思ったら、また戦争が起こった。

永瀬:戦争が起きているのに、日本だけ平和っていうギャップがあった。

中村: 1月17日にアメリカ軍が戦闘を開始するんですが、その日が(大学の)講評会で。新聞に湾岸戦争始まる、なんて書いてあるのに、なんか日本画のしょうもない絵を描いてるんですよ、自分は。それで「今日は講評会だ〜」なんて八王子の山奥で言ってて。すごく違和感あったの覚えてますね。

永瀬:僕は違和感を覚えられない自分っていうのをイメージしてました。「あ、平和なんだ」って、すごいのほほんとしてた。イギリスとかどうだったんですか? 参戦してますよねイギリスは。

眞島:私は、あのときは家の近所のカフェでいつものように定食を食べていて、テレビでイギリス空軍の司令官が「今回の作戦は…」っていうのを延々と説明する番組を見て、「あ、戦争やっている国は違うな」と思っていました。そんな感じです。

中村:キーファーに戻っていいですか? 個人的に思い出すのは、87年の「ドクメンタ8」にキーファーが出てるんですけれども、当時僕は立川美術学院って予備校に行ってたんですね。そこに菅原健彦(1962-)さんっていう今は京都造形芸術大学で日本画を教えていらっしゃる先生がいたんですけど、彼がドクメンタを見に行って帰ってきたときに、「ケンゴすごいよ。ドイツ館に入ったらね、なんか暗くて、近づいて見てみたら壁全体が全部絵だったんだよ! それがキーファーっていう作家だったんだよ!」みたいな話をしてくれて、そうしたらやっぱりこの年くらいに、大量の画集が東京にも入ってきた。キーファーの絵っていうのはご存知の方はわかると思うんですが、砂が盛ってあるような感じの絵で、日本画の人が真似しやすいんですよ。それで芸大生の中でキーファー流行ましたね。多摩美はわりとニューウェーブ系なんで、あっさりした作品が多いですけど。そんなすぐ染まっちゃう僕ら。

眞島:それはどこもそうです(笑)


    ザ・ギンブラート

    中村政人が企画。貸画廊から始まるアーティスト・サヴァイバルに疑問を呈するコンセプトから、当時最大の画廊街だった銀座で行われた。路上で若手美術作家がゲリラ的に作品を展開した。<中村>


    新宿少年アート 

    pic

    「ザ・ギンブラート」開催の翌年、新宿歌舞伎町に場所を移して行われた。

    [画像]乳母車に乗ってアジテーションにているのは、当時水戸芸術館学芸員だった黒沢伸。撮影しているのは中村ケンゴ(写真左)花園神社にて(写真右)<中村>


    演劇

    事業展開していく劇団が現れていた時期でもある。演劇集団キャラメルボックスはファンタジックな「お話」作りで動員を延ばした。コマーシャルなものが批評的意味を持っていた流れの一端かもしれない。キャラメルの母体となった早大演劇部「てあとろ50'」は1990年当時も後に小説家となる横田創氏を中心に活動しており、筆者は舞台を目にした。また青年団がアゴラ劇場で台詞を重ねて発話していたことには驚いた。青年団は後のチェルフィッシュなどへ繋がる。<永瀬>


    バパ・タラフマラ

    1982年旗揚げの劇団、ダンス・カンパニー。舞台美術などの造形も現代美術的に洗練されていた。今年(2012年)3月解散が報道された。筆者は1990年8月の「パレード」(真鶴特設野外劇場)を見ている。夕刻の海岸に設営された劇場で海を感じながら展開された舞台は幻想的であった。<永瀬>


    ポスト・コロニアル理論、そしてカルチュラル・スタディーズ

    90年代日本のアート・シーンにおけるポスト・コロニアル理論とカルチュラル・スタディーズの(あまり多くない)具体的な実践の一つとして、慰安婦問題などを扱った嶋田美子の諸作品が挙げられるだろう。いわゆる従軍慰安婦問題は、90年代の日本で最も大きな論争を巻き起こしたポスト・コロニアルのトピックである。<眞島>

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20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から
copyright: Kengo Nakamura All Rights Reserved. http://www.nakamurakengo.com/


20世紀末・日本の美術
ーそれぞれの作家の視点から
企画:中村ケンゴ
企画協力:MEGUMI OGITA GALLERY
音響機材:NORISHIROCKS
椅子提供:Civic Art
記録:小金沢智
ビデオ撮影:亀井誠治
販売協力:原花菜子
登壇者
眞島 竜男/現代美術作家
永瀬 恭一/画家
中村 ケンゴ(司会)/美術家
楠見 清(ゲスト・コメンテーター)/美術編集者・評論家
目 次
年表作成の為の参照文献
<年表作成の為の参照文献>
BRUTUS 2008年2/15号『すいすい理解る現代アート』/美術手帖 2005年7月号『日本近現代美術史』/山内崇嗣の美術史年表wikipedia『1990年代』FUKUSHI Plaza 『20世紀略年表』
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