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20世紀末・日本の美術


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1992年(平成4年)
 1992年
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:1992年は、のちにバブル崩壊と言われる年だけれども、僕ら学生だったのであんまりピンときていない。ただ1989年に35,000円までいった平均株価が、1992年2月には20,000円を切って、8月には15,000円を切ると。最終的に2003年に7000円まで下がってしまう。今っていくらくらい?

永瀬:9600円くらい。

中村:当時、35,000円くらいまでいっていたのが急に15,000円くらいになった。100万円で買った絵が、オークションで突然30万円くらいになっちゃった、みたいなことが起こっているのですが、この年に『美術手帖』で「ポップ/ネオ・ポップ」という非常に重要な特集号が出ています(3月号)。今回のポスターにも使ったんですけれども(記事をプロジェクションする)。
これは「日本におけるネオ・ポップとは何か?」っていう図なんですけど、デュシャンの便器が「デュシャーン!」とロボットに合体してるっていう(笑)。これ楠見さんが作ったんですか?

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楠見:うん。ラフスケッチ描いて、デザイナーにこれ版下に起こしてくれと。「ポップ/ネオ・ポップ」特集は三章立てになっていて、ブリティッシュ・ポップ・アートをピンボール・マシンに、アメリカン・ポップ・アートをバイクのエンジンに喩えた模式図が前段階にあって、そのあとに「もしこれから日本にもネオ・ポップがありえるとすれば」という仮想概念図を合体ロボに喩えたんです。オタク要素が合体して、そこへデュシャンの便器がパイルダー・オンする──見た目はザクの頭部なんですが動きはマジンガーZという、オタク世代にだけわかるネタだったんです。

中村:デュシャンということは、表現主義的じゃなくて、どっちかっていうと死とか無意味っていうか、そっちの反芸術的なイメージなんですよ、中ザワヒデキさん流に言えば。

楠見:そうね。タナトスと同時にエロスでもあるけど、ここではコンセプチュアルの象徴としてやっぱり便器(マルセル・デュシャン《泉》1917年)でしょと。コンピュータやアイドルやアニメといったオタク系のサブカル要素──当時は僕らの世代も恥ずかしいと蔑んでいて、上の世代からは眉をひそめられるような非美学的なものを合体させて現代美術のコンセプトで統合制御せよ、これがジャパニーズ・ネオ・ポップである、とぶち上げてみせたんだけど、この仮定的提案は当時の美術界では完全にスルーされましたね。

中村:でもスルーって言ってもこのメンバーですよ(記事をプロジェクションする)。中原浩大さん、ヤノベケンジさん、村上隆さん。みんな、若!(笑) 以前から中原さんは結構でてましたけれども、この三人がガッとこの号から出てくるって感じですかね。

楠見:それこそレントゲン藝術研究所でこのあと開催される「アノーマリー展」の出品作家なわけだけれども。

中村:「アノーマリー展」、これ当時のDMです。…「レントゲン藝術研究所では、1992年9月4日よりゲストキュレーターに椹木野衣を迎え、伊藤ガビン、中原浩大、村上隆、ヤノベケンジの4人の作家による「アノーマリー展」を開催します」。僕は初日のオープニングパーティーに行ったんですけど、本当に大変なことになっていました。

眞島:何人くらい来てました?

中村:いや、もう、ギュウギュウ。

楠見:なんというか、1960年代のウォーホルのファクトリーみたいな感じ。

中村:みたいな感じで、当時、SMTVっていうのをやっていた八谷和彦(1966-)さんが全身にちっちゃな液晶テレビつけてウロウロしてたりとか(笑)、ともかくカオティックな状況で。なんていうのかな、当時ディスコが終わって、クラブカルチャーがきてるんですけど、ギャラリーがクラブ状態になるっていうのを、身をもって体験したというか。夜遊びとアート初めて一緒になった、そういう感じでした。

楠見:「ポップ/ネオ・ポップ」特集は「アノーマリー展」より半年早かった。実はこのとき「楠見はもうBTから外せ」っていう人事異動が決まってたんですよ。それで、最後の一ヶ月でうわーっと。

中村:この号はやり逃げ?

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楠見:っていうかこれをやらずに、俺はこの場を離れることはできないという責任感ですよ。日本の未来のアートが僕にははっきりと見えているという確信がありましたから。当時、オタクがポップ・アートのモチーフになるなんてことは誰も発想として言っていなかったんだけれども、それは言っておきたいっていう感じで、その蒔いた種が10年後くらいにわっと出たっていうそんな感じでしょうかね。

中村:僕はそのとき楠見さんが干されたっていうのは知るよしもないですが、確かに急に『美術手帖』の「BT」って字がまた小さくなって、なんだろうって。

楠見:コンサバティブになるんだよね。若手のスタッフ三人がいっぺんに外されて、年配の編集主幹と編集長を降臨させるというテコ入れだったから。記事があまりにもとんがりすぎたから、まぁここらで、メンバー交代みたいな。

中村:あと、バブル崩壊っていうのもあるんですか?

楠見:うーん。売り上げ的にはむしろよく持ちこたえていたつもりだったんですが、経営者としてはコンサバ路線に舵を切ることで何かしたいという意図はあったかもしれないですね。ただ、その後部数は減ったはずで、1999年に僕がBTに戻されたときに与えられたミッションはサブカル路線で部数を増やせ、だったんです。あの雑誌は歴史的にみて前衛路線とコンサバ路線を何年かおきにスイッチすることでマンネリ化を避けてきたという利点もありますね。


    「もしこれから日本にもネオ・ポップがありえるとすれば」という仮想概念図


    BTBT


    これに先行して楠見はレントゲン藝術研究所機関誌『Radium Egg』第1号(1991年12月)にDr. RE名義で寄せたコラムにおいて、もはや退屈で無意味な美術史の息の根を止めるための「最終芸術の11の条件」を掲げたが、そこに掲載した自筆のエスキースにもすでにさまざまな作品が合体し、頭部がデュシャンというアイデアが見られる。<楠見>


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20世紀末・日本の美術
ーそれぞれの作家の視点から
企画:中村ケンゴ
企画協力:MEGUMI OGITA GALLERY
音響機材:NORISHIROCKS
椅子提供:Civic Art
記録:小金沢智
ビデオ撮影:亀井誠治
販売協力:原花菜子
登壇者
眞島 竜男/現代美術作家
永瀬 恭一/画家
中村 ケンゴ(司会)/美術家
楠見 清(ゲスト・コメンテーター)/美術編集者・評論家
目 次
年表作成の為の参照文献
<年表作成の為の参照文献>
BRUTUS 2008年2/15号『すいすい理解る現代アート』/美術手帖 2005年7月号『日本近現代美術史』/山内崇嗣の美術史年表wikipedia『1990年代』FUKUSHI Plaza 『20世紀略年表』
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