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20世紀末・日本の美術


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1991年(平成3年)
1991年
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:次行くよ、1991年。湾岸戦争、ソビエトが無くなりました。

永瀬:『批評空間』(福武書店)の第1期がこの年に始まってるんですね。

中村:柄谷行人さんの『批評空間』ですね。で、レントゲン藝術研究所がオープンしています。これも非常に大きなポイントだと思うんですけれども、多分今のラディウム(2008年3月〜)をご存知の方はちょっとイメージできないと思うんですよ。大田区の京急線沿いにあった、かなり大きな空間を持ったギャラリーでした。それから佐賀町エキジビットスペース。

永瀬:水天宮の近くって言った方がいいのかな? 食料ビルっていう古い建物があって、佇まいがよかったんですね。そこに当時勃興してきたコマーシャルギャラリーが入るみたいな展開だったと思います。

眞島:その前段階として小池さんがやったことは…。

中村:小池さんというのは佐賀町エキジビットスペースの代表の方ですね。

眞島:そうです。小池一子(1936-)さんは、日本の現代美術シーンで、たぶん最初と言って良いと思うんですが、オルタナティヴ・スペースをきちんとした形で作った人ですね。

中村:小池さんというと、皆さんには無印良品のコンセプトを作った人ということで有名かもしれないですね。それからこの年ですね、椹木野衣さんの『シミュレーショニズム』(洋泉社)が出ています。今繋がりましたね。柄谷行人さん、北澤憲昭さんがあって、椹木さんの『シミュレーショニズム』が出たということです。これは僕らの世代のアーティストにとっては非常に影響力の強い著書だったと思うんですけれども、当時椹木さんって『美術手帖』の編集部にいらっしゃったのですか?

楠見:ええ。椹木さんとは同期入社なんです。

中村:一緒にお仕事されてたと思うのですけれども、シミュレーショニズム来てるぜ、みたいなことがあったんでしょうか?

楠見:ええ。海外の主要なアート雑誌がエア・メールで届いてたし、『美術手帖』の海外ニュース欄に記事を書いてくれている筆者とのファクスや国際電話でのやりとりで、ネオ・ジオが赤丸急上昇中みたいなアートの最新情報は日本で一番早くキャッチしてたと思う。

中村:ネオ・ジオっていうのは「ネオ・ジオメトリカル(neo-geometrical)」の略で、「新しい幾何」という意味です。

楠見:アートに限らず海外の情報はまず最初に専門雑誌の編集部に集中してた。一般ピープルとの差は大きかったし、新聞やテレビも専門誌の後追いで記事を作っているのが現場にいるとよくわかりましたね。

中村:そういう時代ですね。今みたいに先にツイッターで知るとかない。

楠見:で、編集部内でたとえばこのピーター・ハリー(Peter Halley/1953-)がすごいっていうのを記事にしたいんだけど、「誰に書いてもらう?」って言ったときに、「いないよね」、って。「じゃ、自分で書くしかない」、みたいな。椹木野衣もDr. BTもそういう必要性が生んだ社内覆面ライターだったんです。

中村:ピーター・ハリーなんか誰も知らんし、書けるライターがいないと。なるほどね。当時僕は美大に通ってましたが、授業でウォーホル(Andy Warhol/1928-1987)とか言っている先生が、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドも、トーキング・ヘッズも聴いたことがないわけですよ。アホかという。椹木さんが出てきて、初めてそうしたポップ・ミュージック/ポップ・カルチャーと最新のアートを結びつけるようなことをされた。

楠見:そういう意味では、ロックを聴いていた世代にとっては、ニューヨークやロンドンのアートシーンはこれまで趣味の領域にあった事象と現代美術の動向を、ひとつの繋がりとして、そして広がりとして、わずかな情報からでも大いに想像力を喚起してくれたんですよね。

永瀬:音楽でいうと、アナログレコードからCDへのチェンジが1989年、1990年くらいにバーッと起きてきた。町中のレンタルレコード屋で、大量にアナログレコードが1枚100円くらいで売られて、つまりCDに入れ替えるわけですから、そういう所で、ペンギン・カフェ・オーケストラですとか美大生が買いそうなレコードを買っていた記憶がありますね。

眞島:1988、1989年頃ですね。私が高校2、3年生くらいのとき。

中村:これが1991年に出たソニック・ユースのアルバムですけれども、(ジャケットに使われているのは)マイク・ケリー(Mike Kelley/1954-2012)の作品ですよね(プロジェクションする)。それまで大学ではポストもの派みたいなものがほとんどを占めていたから…先生たちは木を切ったり石をゴロゴロやっているわけですよ(笑)。そんな中で「やっと僕たちの時代が来た!」みたいな気持ちがあって…。

pic

楠見:ソニック・ユースはこれ以前にもレイモンド・ペティボン(Raymond Pettibon/1957-)やゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter/1932-)をジャケにしてましたからね。

中村:これですね(プロジェクションする)。こういうのでグっときてました。ただの若者でしたから(笑)。それからハウス・ミュージックの盛り上がりもあって…。

楠見:それまで王道とされていたフォーマリスティックな絵画理論では語れないようなアーティストが台頭してきた。だったらこれはむしろ音楽の論理で語るべきだという機運が、瞬時にしてボッと火がついた瞬間でしたね。

中村:ポップっていうものが批評的に機能することになった。

楠見:うん。シミュレーショニズムが出て来るまで、ポストモダン全盛の80年代においてポップは60年代の思想というか、今でいうならオワコンとして時代の裏側にあった。もちろんウォーホルがバスキア(Jean-Michel Basquiat/1960-1988)をプロデュースしたりするのは現象としてポップではあったけれど、ジェフ・クーンズ(Jeff Koons/1955-)のバスケット・ボールのレディメイド(《two ball 50/50 tank》、1985年)が出現してようやく思想としてのポップというか、ポップ・アート本来のダダ的側面が再評価されたわけです。

中村:眞島さん、ロンドンの学内でもシミュレーショニズムが強く入ってきてるなっていうのを意識されましたか。

眞島:どこの美術学校もそうだと思いますが、流行っているものに染まるというのはやっぱりあって、さっき話が出たネオ・ジオ、幾何的でクールな抽象、ああいったスタイルの絵を描き始めた学生が1990年代の頭頃にはいっぱいいた。そういう形で、シミュレーショニズムの波は来ていました。

楠見:その波が来る前までは、ニューヨークではジュリアン・シュナーベル(Julian Schnabel/1951-)や3Cといった新表現主義とキース・ヘリング(Keith Haring/1958-1990)やバスキアが混在して流行っていて……。

眞島:私がイギリスに行った頃は、抽象表現主義的な絵画のプラクティスが依然としてあって、それから80年代のニュー・ブリティッシュ・スカルプチャー的なもの、あと版画とか、カリカチュアとか、そんなのもありましたね。

中村:ロンドンっぽいね。

眞島:ただ、ゴールドスミスという学校は、理論的というよりは、どちらかというとアメリカ的な学校としてキャラクタライズした方がいいと思います。アメリカ的なカリキュラムで教える学校である、と。いわゆる授業がなく、学生はそれぞれ適当にスタジオに行って仕事をして、時々先生と話をする、というスタイルです。

永瀬:その幾何的なものがそれまでのいわゆるペインタリーな絵画とか塑像とかと比べてシャープに見えたっていうのと関連すると思うのですが、建築が当時美大にいた人間にとってシャープに、カッコいいものとして見えた。

中村:建築っていうジャンルが?

永瀬:うん。当時あったイージーなニューペインティングとの対比でデコンなどのロジックを背景に持った建築が新鮮だったんですね。具体的に言うとANY会議(Any Conference)っていうのが、1991年に始まっている。磯崎新(1931-)さんが、浅田彰(1957-)さん、先ほど言っていた柄谷行人さんたちと一緒に、こっから10年間かけてアイゼンマン、あるいはデリダらと同じテーブルについた。『Anywhere』等の雑誌も出た。そういうものがカッコよく見えたっていうことと、もう一つは、いわゆるポップ・アートとハイアートって今の文脈だと分けられて語られがちだと思うんですけど、このときそんなに分かれていなかった。80年代からですが、「ポップかつハイ」っていうのが浅田彰さんに対する形容だった。

中村:ポップかつハイ? カッコいいね。今じゃあありえないね。

永瀬:そういう文脈が当時はまだ活きていて、たとえばネオ・ジオとかに関しても抽象度の高い美術であったわけで、単純にポップって言っていいのかハイって言っていいのかわからない。それらとリンクする形で建築を想起しておいていいと思います。

中村:建築とネオ・ジオを合わせた話だと、僕の《コンポジション・トウキョウ》っていう作品で、ワンルームマンションをモンドリアンのように表したのは、まさにピーター・ハリー(Peter Halley/1953-)のイメージと、大量にあるっていうのはアラン・マッカラム(Allan Mccollum/1944-)のイメージだったんですね。あとシェリー・レヴィン(Sherrie Levine/1947-)も入れてもいいんですけど。

楠見:うわ。染まってますねえ。

中村:そうですね(笑)。でも僕は当時美大の日本画専攻にいたのでその孤独感たるやすごいんですけど。

眞島:アラン・マッカラムとか、ピーター・ハリーとか、どれくらいの人が名前を知っているかっていうと、多分若い方はほとんど知らないんじゃないかと思います。ピーター・ハリーだけでなく、その時期に集中して色々なアーティストの名前が出てきた。それって、『美術手帖』などのメディアの力が相当大きかったですよね。

中村:でね、シミュレーショニズムっていうのはボードリヤールなんかを援用した理論があったけれども、当時の僕にとっては、たとえば予備校なんかで石膏デッサンとかするでしょ? すると先生が「これはケンゴの絵じゃないな。もっとお前らしい絵を描け」とか言われるわけですよ。大学に入ってもそんな感じなんですよね。でも自分らしい絵なんてよくわからないわけですよ。そんな袋小路に入っていたときに、シミュレーショニズムの手法っていうのは、自分を表すのではなくて、ある種の引用/盗用によって作品を作る…。

楠見:サンプリング、カットアップ、リミックス。

中村:そう。ただ、生き生きとした芸術というよりは、死みたいなもの? あとは無意味みたいなもの? っていう感じで、むしろそれが僕にとってすごく救いになった。

楠見:へえ。僕はシミュレーショニズム、というかネオ・ジオからネオ・ポップの流れにはむしろスピード感やグルーヴ感があったと思うんだけどなぁ。死みたいなものというのはどういうこと?

中村:ゾンビっぽいというイメージもあった(すでに死んでいるからもう死ぬことはない)。とにかくね、自分らしい絵を描けとか、内面を表現しろっていうのは全然意味が分からなくて、それこそ『日本近代文学の起源』じゃないですけど、そんなもんないよと。でもアートやりたいっていうこの矛盾した感じ?(笑) そんな中でネオ・ジオとかシミュレーショニズムの手法が僕の最初の表現のきっかけになっていますね。

眞島:それは、私も完全にそうです。シミュレーショニズムっていうのは美術の理論だけれども、すごく砕けた言い方をすると、当時の若者の青春に真っ直ぐ突き刺さったものでもあったんですね。


    批評空間

    柄谷行人が浅田彰と共に編集した批評・思想雑誌。幅広い分野に渡って水準の高い理論誌となっていた。書き手としては東浩紀を輩出していくなど、後々非常に強い影響を及ぼしていくことになる。<永瀬>


    無印良品

    株式会社良品計画が展開する専門小売業者。西友のプライベートブランドとして1980年にスタート。1983年に 青山に直営店を出店。小池一子は田中一光とともに、メインの企画者として創設に関わる。<中村>


    レコードからCDへの移行

    アナログ盤としてのレコードの力は単に音楽だけでなく、そのジャケットによるデザインワークにも強いものがあったことは本編でも語られている。CDへの移行によってサイズが小さくなったことはグラフィックメディアとしての発信力の低下も意味していた。<永瀬>


    3C  

    サンドロ・キア(Sandro Chia/1946-)、エンツォ・クッキ(Enzo Cucch/1950-)、フランチェスコ・クレメンテ(Francesco Clemente/1952-)。当時人気のイタリア現代絵画の御三家の頭文字をとって3Cと呼ばれた。<楠見>


    流行っているものに染まる

    1990年代初頭、ゴールドスミス・カレッジではハードエッジな抽象絵画がちらほら見られた。木工では手仕事感の少ないMDF材が、写真ではクールな風合いのRCペーパーが好まれる、といった風潮もあったように思う。<眞島>


    ニュー・ブリティッシュ・スカルプチャー

    1980年代の英国において「アンソニー・カロ以後」として現れた一連のポストモダン的な彫刻の動向。代表的な作家として、トニー・クラッグ(Tony Cragg)、リチャード・ディーコン(Richard Deacon)、リチャード・ウェントワース(Richard Wentworth)らが挙げられる。日本にファンが多い(ような気がする)。<眞島>


    ANY会議

    建築のアートに対する優位は政治・経済といった社会的文脈に規定されながら抵抗原理として形式的な問いを手放さなかった所による。日本の建築は造形芸術として強力に近代というエクササイズを続けており、水準は世界的であった。またバブル期は日本は建築万博の様相を呈している。筆者は少し後に、今は廃棄されたアイゼンマンによる「布谷ビル」を見に行っている。<永瀬>


    磯崎新

    1931年生まれ。建築家。評価及び実力で言えば安藤忠雄など足下にも及ばない筈だがなぜか東京では冷遇されていて、都心にマスターピースがない。どころかお茶の水スクエアのカザルスホールなどは使用停止の憂き目にあっている。東京都新都庁舎(90年)、東京芸術劇場(90年)、江戸東京博物館(93年)、東京都現代美術館(95年)、東京国際フォーラム(97年)を東京の五大粗大ゴミと言ったのは有名。<永瀬>


    浅田彰

    1957年生まれ。京都大学助教授を経て京都造形芸術大大学院長。このシンポでは触れなかったがNTTによるメディアアート美術館ICC設立に協力(1997年)し、雑誌『InterCommunication』も発刊した。経済学の出自ながら殆ど「歩く芸術google earth」とも言える経験備蓄を持つ。しかし油断していると変な事も言うので注意。<永瀬>

     

    「ポップかつハイ」

    浅田彰に対するE.V.Cafe内での柄谷による評。しかしこの表現は時代の空気も表していた。本格的な美術理論雑誌「FRAME」は岡崎乾二郎を中心に90年に創刊し91年まで3号続くが、ここには荒川修作、ルイ・カーンといった名前と並んで岡崎京子、ギルバート&ジョージという名前もあった。発刊元がインテリア会社のIDÉEであることにも注目。実にコアな試みがポップに行われていた。<永瀬>

     

    コンポジション・トウキョウ

    中村ケンゴが1994年から発表している作品のシリーズ。日本画技法によって東京に実在するワンルーム・マンション、単身者用のアパートの間取りを描いている。

    http://portfolio.nakamurakengo.com/?cid=1

    <中村>


    ジャン・ボードリヤール

    フランスの思想家でポストモダン思想の代表的存在。現代の大衆消費社会を独創的に分析。著書に『消費社会の神話と構造』『象徴交換と死』『シミュラークルとシミュレーション』『湾岸戦争は起こらなかった』など。ボードリヤールの哲学は映画『マトリックス』にも影響を与えている。

    <中村>




シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)
シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)
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20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から
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20世紀末・日本の美術
ーそれぞれの作家の視点から
企画:中村ケンゴ
企画協力:MEGUMI OGITA GALLERY
音響機材:NORISHIROCKS
椅子提供:Civic Art
記録:小金沢智
ビデオ撮影:亀井誠治
販売協力:原花菜子
登壇者
眞島 竜男/現代美術作家
永瀬 恭一/画家
中村 ケンゴ(司会)/美術家
楠見 清(ゲスト・コメンテーター)/美術編集者・評論家
目 次
年表作成の為の参照文献
<年表作成の為の参照文献>
BRUTUS 2008年2/15号『すいすい理解る現代アート』/美術手帖 2005年7月号『日本近現代美術史』/山内崇嗣の美術史年表wikipedia『1990年代』FUKUSHI Plaza 『20世紀略年表』
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