20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から | www.nakamurakengo.com |

ブログやるならJUGEM
20世紀末・日本の美術


書籍化
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

1989年(平成元年)
1989年
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:まず、1989年からいきます。(年表の)一番向こうですね。90年代を話すと言いながら、なぜ1989年からやるのかと言うと、1989年というのは日本においても世界においてもかなり重要な年なんですね。何があったかというと、マルタ会談があって、米ソの冷戦が終結しました。これは相当大きな影響が美術にもあると思います。もう一つ、それに伴ってベルリンの壁が崩壊しました。多分皆さん子どもの頃は、東西ドイツが一緒になるとか、ソビエトがなくなるなんてことは、思いもよらなかったことだと思うんですけど、そういうことが起こった年です。 日本では何があったかといいますと、昭和天皇が崩御しています。天皇が亡くなられて、昭和が終わりました。非常に大きな事件ですね。ただ一方バブルの時代でもあって、かなりウハウハな感じです。そんなのみんな知らないと思うけど(笑)。

眞島:バイトにまったく困らない時代でしたね。

永瀬:それはすごいありましたね。

中村:眞島さんはその年にロンドンのゴールドスミス・カレッジに入学されているということですね。なぜロンドンの大学に行こうと思われたのですか?

眞島:ゴールドスミス・カレッジは日本人留学生の枠を用意していました。というのは、要するにお金ですよね。海外からの留学生が払う学費が大学の経営には必要だということで、アジア諸国からの枠を用意して、それを積極的にプロモートして、日本にもイギリスから大学の関係者が来て、全部オーガナイズして営業をやっていたわけです。それで、私は1989年にまずその基礎過程にコースに入って、学部にはその後で改めて面接などの試験を受けて入学しています。90年代初頭はそういう動きが活発だった時期で、というのは、当時のイギリスの経済はどん底で…。

中村:日本は最高。

眞島:そういうことです。そこには完全に経済の差があって、それで動いていたということです。

中村:他のロンドンの美大でもそういう動きがあったのですか?

眞島:あったと思います。

中村:たとえばチェルシーとか、他にも大学があるじゃないですか。なぜゴールドスミスだったのでしょうか? ゴールドスミスはわりとコンセプチュアルな美術教育をするところで有名ですよね。

眞島:最初は、そういうのを全然知らないで行ったんですよ。私が通っていた高校に、ロンドン大学から留学生募集の書類が送られてきていたんですね。たぶん、あちこちの高校にばらまいていたんだと思います。私は美術部だったのですが、顧問の先生が「こういうのあるけどどうだ」と教えてくれて、ものは試しでやってみたという経緯です。全国の高校に送っていたんじゃないかな?

中村:美術系の高校に行ってたんですか?

眞島:いえ、県立の普通高校です。まず基礎過程に入って、その後でゴールドスミスっていうのはコンセプチュアルな学校だということを、そこで知った。そういう順序です。

中村:ゴールドスミスはダミアン・ハースト(Damien Hirst/1965-)も出てますけれども、ダミアンは何年上だったんですか?

眞島:それは、正確には分からないんですけれども、1989年の夏に、たぶん彼の学部かマスターの卒展の展示を見ています。薬瓶のキャビネットの作品です。

中村:なるほど。楠見さんはさきほどおっしゃられましたけれど、もうBT(『美術手帖』)編集部に入られているということですよね。なぜ美術関係のところに行こうみたいに思われたのですか。

楠見:マスコミ志望で出版社に入りたいというのがあったんですよ。当時、80年代って雑誌の黄金時代で、ニュースの中心、文化を動かすエンジンの役割を雑誌が担っていたんです。僕は大学では古典的な美術史を専攻しながらも、先輩が持っていた『美術手帖』を見ながら現代美術という現在進行形のシーンがあることを知ったりしたわけだけど、その辺で自分の関心のある領域で世の中動かす、っていったらなんだろう、『美術手帖』がいいなぁというストレートな発想で。

中村:実際『美術手帖』に入って、当時のアートシーンとかを見ることになると思うんですけど、1986年に入ったときって、どんな印象でしたか? 実際に入ってみて、どんな感じがしましたか?

楠見:美術界っていうよりは、当時の出版界の状況からお話しすると、僕が入ったときには、まだ編集部にパソコンどころかワープロもない。机の上には原稿用紙と赤青鉛筆(笑)。ファクスはあったけどまだ一般家庭にはないから、結局どうしてたかというと、原稿は筆者の人の自宅近くの駅前の喫茶店で待ち合わせて……。

中村:僕もマガジンハウスでバイトしていたんですけど、原稿取りに行ったりしてましたね。

楠見:そうですよね。そんな原始的な出版環境からだんだんと家庭用ファクスが普及したり、ワープロで文字入力したのをフロッピー入稿できるようになったり、そしてMacでDTP化していくという、いわば編集の技術革新のプロセスの中で編集の仕事を続けてきたわけなんだけれども、その意味では僕は編集者として最後のアナログ世代であったと同時に最初のデジタル世代でもあった。それは美術家がメディアになっていくという過程にも重なると思います。

中村:作家自身がということですか?

楠見:作家自身がインディーズで出版物をつくったり──中ザワヒデキ(1963-)さんの『近代美術史テキスト』やフロッピーマガジン『JAT』、中村政人(1963-)さんの『美術と教育』などですね──を作ったり、八谷和彦(1966-)さんは最初海賊テレビ放送をやっていた。何か情報を発信したい、そういう感覚が編集者とアーティストの枠を越えて、確実に俺たちの間でなにか始めてるなっていう感じはありましたよね。編集部ではまだ駆け出しのペーペーだったけど、同世代の編集者やまだ無名だった頃のアーティストと知り合いながら新しいフィールドでボールを転がし始めた。銀座や神田中心の画廊界とは別の場所で夜のクラブ活動──ここナイト・クラビングと部活をかけてます(笑)──みたいなノリで、新しいアートシーンが始まっている感覚があったんですよね。

中村:なるほど。どんどんいきますけれども、ちょうどこの年、幼女誘拐殺人事件っていうのがあって、宮崎勤という犯人の家を捜索したら、大量のアニメビデオがあって、初めて「オタク」っていう言葉が一般化するときなんですね。
さらに話は飛びますけれども、美術史、美術批評における非常に重要な本が出ています。この、北澤憲昭(1951-)先生の『眼の神殿』(美術出版社)という本なのですが、ここには、日本の近代美術がどのように生まれたかっていうその起源が書かれているんですけれども、こうした美術史評論と、オタクっていうのがある意味合わさって、「スーパーフラット」が生まれていくなんていうことも、実はあるんですよね。眞島さん、この本についてなにか。

眞島:『眼の神殿』については、やっぱり90年代を通して、かなりの影響力を持った本だということは確かですね。北澤憲昭自身は、オタク・カルチャーですとか、スーパーフラットに直に繋がるわけではないのですが、椹木野衣(1962-)や村上隆(1962-)の言説は、相当これを下敷きにしている。

中村:そうですね。昨年(2011年)、浅草寺で小沢剛(1965-)さんが藝大の学生使って油画茶屋っていうのやりましたよね(「油絵茶屋再現 :アートサイトクルージング」)。まさにこの本に書かれているようなことだと思うんですけれども。ともかくようやく80年代も終わりになって、「日本の美術ってなんだろう?」っていう起源探しが始まったというか。

眞島:ポスト構造主義の、フーコー的な考古学のアプローチで書かれた本だったはずなんですね、当時は。この本で、美術というものに、美術という言葉に改めて光が当たり、20年かけて徐々に一般化していったんだと思います。

中村:そうですね。今、こんなに日本美術ブームって信じられないですよ、この頃のこと考えたら。

永瀬:雑誌、出版、起源というキーワードから言うと、多分これ役割的に言わなきゃいけないことだと思うのですが、1988年に『季刊思潮』(思潮社、〜1990年)というのが柄谷行人(1941-)さん中心に始まっている。それから、柄谷行人さんは当然70年代から活動されているのですが、1988年頃から一気に文庫化されるんですよ、色んな著作が。これは今日の話の基調になっていくと思うのですが、『日本近代文学の起源』という本が文庫化されたのが1988年です(講談社学芸文庫/初刊は1980年、講談社)。これが多分基底音になっている感じがします。たとえば、北澤憲昭さん、あと椹木野衣さん『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)もそういう所があると思いますが、「〜の起源はこうだと思われているが、実はこうである」という論法で、それでこの10年全部乗り切れられるんですよ、言説が。それって誰が始めたかというと、柄谷行人なんです。このことは多分イメージしておいた方がいいと思います。


    バイトにまったく困らない時代

    いわゆるバブル期は、時給2,000円のバイトがざらにあるような売り手市場の時代だった。若いアーティストがアルバイトだけで生活費と制作費を十分まかなえたわけで、これが当時のアート・シーンに影響を与えなかったはずはないと思う。<眞島>


    ゴールドスミス・カレッジ

    ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ(Goldsmiths' College, University of London)。1990年代にダミアン・ハーストらYBA(Young British Artists)を数多く輩出し、国際的に大きく知名度を上げた。2006年からの経営上の名称はGoldsmiths, University of London。ちなみに、筆者の同級生にはスティーブ・マックイーン(Steve McQueen)やジェイソン・マーティン(Jason Martin)がいる。 http://www.gold.ac.uk/ <眞島>


    『眼の神殿』

    北澤憲昭著『眼の神殿 「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年)。〈偽史〉としての日本近代美術史の起源を「美術」という言葉の受容プロセスから読み解く名著。90年代半ばから目立ち始めた日本(近代)美術(史)を扱う作品の多くは、本書が提示した歴史観を(間接的にせよ)下敷きにしている。以後、『美術という見世物 油絵茶屋の時代』(木下直之 著、平凡社、1993年)、『〈日本美術〉誕生 近代日本の「ことば」と戦略』(佐藤道信 著、講談社、1996年)、『語る現在、語られる過去 日本の美術史学100年』(東京国立文化財研究所 編、平凡社、1999年)、『美術のゆくえ、美術史の現在 日本・近代・美術』(北澤憲昭+木下長宏+イザベル・シャリエ+山梨俊夫 編、平凡社、1999年)など、日本の近代美術史についての書籍が90年代に相次いで出版された。<眞島>


    柄谷行人

    1941年生まれ。文芸批評家。中期の「形式化の諸問題」等は原理的論考で、筆者は当時「隠喩としての建築」を美術批評として読んだ。だがそれに対応しえた美術言説は後の岡崎乾二郎「経験の条件」のみである。初期の「日本近代文学の起源」が日本の近代美術再考に大きく影響したのに比べると、柄谷の中心的仕事に応答可能な美術側が脆弱だったことは事実だろう。<永瀬>


    季刊思潮

    88年創刊で後の「批評空間」の前身。この雑誌が出る迄は岩波書店の「へるめす」が著名な思想誌としてあった。しかし「へるめす」は1994年に終刊。今では忘れられているが「へるめす」から「季刊思潮」というバトンタッチは改めて記憶されていいと思う。<永瀬>




眼の神殿―「美術」受容史ノート
眼の神殿―「美術」受容史ノート
定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)
定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)
スポンサーサイト
書籍化
20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から
copyright: Kengo Nakamura All Rights Reserved. http://www.nakamurakengo.com/


20世紀末・日本の美術
ーそれぞれの作家の視点から
企画:中村ケンゴ
企画協力:MEGUMI OGITA GALLERY
音響機材:NORISHIROCKS
椅子提供:Civic Art
記録:小金沢智
ビデオ撮影:亀井誠治
販売協力:原花菜子
登壇者
眞島 竜男/現代美術作家
永瀬 恭一/画家
中村 ケンゴ(司会)/美術家
楠見 清(ゲスト・コメンテーター)/美術編集者・評論家
目 次
年表作成の為の参照文献
<年表作成の為の参照文献>
BRUTUS 2008年2/15号『すいすい理解る現代アート』/美術手帖 2005年7月号『日本近現代美術史』/山内崇嗣の美術史年表wikipedia『1990年代』FUKUSHI Plaza 『20世紀略年表』
links
PR
RECOMMEND