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20世紀末・日本の美術


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1996年(平成8年)
1996年(平成8年)
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:1996年は、スタジオ食堂が結成されます。スタジオ食堂の説明を簡単にしてもらってもいいですか?

眞島:今ここを見たら、スタジオ食堂の結成は1994年でしたね。

中村:あ、そうなんだ。

楠見:いまさっき、ちょうど休憩時間に外で紫煙をくゆらせながら笠原出さん(元スタジオ食堂メンバー)と話をしていたのだけれど。

眞島:東京の立川市にあった旧リッカーミシン工場の社員食堂跡を使っていたので、スタジオ食堂という名前なんですね。アーティストたちの共同アトリエです。設立が1994年、工場の建物が取り壊されることになって、1997年に移転しました。私が参加したのはそれ以降、スタジオ食堂の二期的な活動に入ってからなので、とりあえず1997年以降の話をしましょうか?

中村:スタジオ食堂の話でしたら、そのまま続けて下さい。

眞島:スタジオ食堂は、様々な活動をしていたので一口には言いにくいのですが、アーティスト・ランのスペースです。アーティストによって運営されるスペースであり、基本としてアーティストの共同アトリエがあり、それに併設される形で展覧会スペースや事務所がある、というスタイルです。

中村:アーティスト・ランのスペースは、今ではたくさんあるけれど、日本ではその走りと言っていいのかな。

楠見:日本にもようやくフルクサスが……みたいな。

眞島:そんな感じなんですかね。ちょっと話がずれるかもしれませんが、さっき話したダミアン・ハーストがやったフリーズ展、あれがプロフェッショナルでコマーシャルな部分を含んだ若い作家たちの活動だったというのと、ちょっと通じるところがある。1997年頃というと、現代美術を扱うコマーシャル・ギャラリーが、今までの話にあったように、ある程度出揃ってきていた状況でした。その中で、いかにアーティストとしてそこに参入していくのか? という意識があったと思うんですね。それがスタジオ食堂の一番ユニークなポイントだったと思います。

中村:発表する場所がない、でもサヴァイブしていかないといけないというときに、じゃあアーティスト同士で力を合わせようっていうことですよね。

眞島:そうですね、それもあります。

中村:上の世代、村上さんと楠見さんと椹木さん、中村政人さんってほぼ同世代ですよね。その世代のひとたちは同世代で一緒にシーンを盛り上げていくということをしていたんですが、スタジオ食堂、つまり僕たちの世代になると、もうそれぞれがそれぞれの造形作品をつくるという感じで、サヴァイブのために組織をつくっても、作品制作自体は個別的になっていく。シーンをつくるより、それぞれの造形制作に集中するというか。そこが僕たちの世代がひとまとまりで見えにくくなっている原因かもしれない。ちなみに楠見さんの世代で一番思い出すのは、オウム真理教の上祐とかですね。

楠見:僕は上祐に(顔が)似てるってさんざん言われたんで迷惑しました。

会場:笑

中村:あとミュージシャンの菊地成孔(1963-)さんも同じくらいですよね。彼のレクチャーで聴いたんですけど、「我々の世代が初めて職場のパソコンの上にフィギアを並べた。大変申し訳ない」、みたいな。ポップ・カルチャーとオタクの一番コアな最初の世代と言ってもいいと思うんですけれども。すみません、話がずれました。…スタジオ食堂は生まれ始めていた新しいコマーシャルギャラリーの時代にサヴァイブすべく組織された共同体だったということでしょうか。

眞島:そうですね。それともう一つは、自主企画による展覧会をオーガナイズする、そういうオルタナティヴな場所を自分たちで作ろうという動きでもあった。その両方が同時進行していたのがスタジオ食堂だった。

中村:その一番代表的なアーティストが中山ダイスケ(1968-)さん…

眞島:中山ダイスケ、須田悦弘…。ここに活動をまとめた本がありますが、こういった記録もきちんと残す。企業メセナから活動資金を取ってくる。そういうところも含んだ活動をしていたグループでした。

中村:これこれこれ(スタジオ食堂で開催されたSTARS展のリーフレットを持って)。

眞島:これは移転する前ですね。数百人集まって、まあ凄かった。私はこの時はまだメンバーじゃなくて一人の観客として行ったんだけど、凄い熱気でした。

楠見:これインディーズ・マガジンの『VOID(ヴォイド」)』っていうの、持ってきたんだけれど、表紙が中山ダイスケさん。

中村:これ柘植さん(柘植響)が作ってたんだよね。僕も持ってた。こういうインディーズ・マガジンとか、フリーペーパーとかみたいなものもけっこうあった。1996年に初めて僕自分のホームページを作るんですけれど…。

永瀬: 1996年? 早いね。

楠見:アーティストのホームページとしてはかなり早い。

中村:でもウェブにアートの情報が流通するにはまだまだ時間が必要だった。また話戻るけど、中山ダイスケさんが、当時のギャラリーQ、貸し画廊を借りて、入場料を取るっていう展覧会をやってるんですね。ここにそのステイトメントがあるんですけれど、どうやって自分たちが作家活動をしながらお金に換えていくのか。まだコマーシャルギャラリーがさっきも言ったようにミズマさんとかタカイシイさんとか小山さんくらいしかないんです。だから展覧会やろうにも、どうやって継続していくのっていうときに、入場料を取ってみるっていう実験をやっているんですね。そういう試みがあった。

永瀬:オルタナティヴ・スペースとかアーティスト・ランのスペースとか、今は普通かもしれないけれど、当時は画期的だったと思うんです。が、何が障壁になっていたかというと、今の言葉で言うとコミュニケーション能力。美術大学に入る人間の多くが、パッとネットワークを作れる人はむしろ少数派だったはずです。当時、僕みたいな沈黙していた人間というのは、じゃあなにかやりたいって思ったときに、人と集まるのはカッコ悪いっていうイメージがあったんですね。カッコ悪いっていうのは、単に能力がないんですけれども。

中村:「リア充爆発しろ」みたいな。

永瀬:今はそういう言葉があるのですっと表出できるんですけれども、当時はそういう言葉もなかったので、そのネットワークが持てない人間というのは悶々としていた。 今話が戻ったので挟んじゃいますけれど、1995年『モダニズムのハードコア』が出た同じ年に、「視ることのアレゴリー」という展覧会がセゾン美術館でありました。

中村:『アサヒグラフ』でも特集しているよ。

永瀬:重要な展覧会だと思います。どういうことかと言うと、岡崎乾二郎(1955-)さん、あるいは松浦寿夫(1954-)さん、他にも何人かいらっしゃいますけれど、今も持続的に活動していらっしゃる、特にフォーマルな…。

眞島:中村一美(1956-)さん。

永瀬:中村一美さんもいます。あと小林正人(1957-)さんですね。フォーマルな意識を持った作品を作って生きていけるんだっていうイメージを、つまりポップじゃなくていいんだっていうイメージを、かといってゴテゴテの彫刻家の石彫とか、油絵科の油絵じゃない、どれでもない、いわば第三の道みたいなものが存在していいんだっていうのが、僕個人的に初めて認識したのはこの展覧会なんです。

中村:ようやく沈黙を破れるかっていうところですよね。

永瀬:まだ破れないんですけど、道が見えたなっていう感じが僕はしました。

中村:この年にピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu/1930-2002)とハンス・ハーケ(Hans Haacke/1936-)の本が出ています(『自由‐交換―制度批判としての文化生産』、藤原書店、1996年5月)。

永瀬:そうです。これは僕が美術に社会学が入り込むってどういう事かを最初に理解した本です。

中村:ブルデューはフランス人の社会学者?

永瀬:そうですね。ハンス・ハーケはアーティストです。この二人が対談をするんですけれど、先ほど眞島さんがおっしゃっていた、イギリスでのPC的な美術の動きが日本でまったくイメージを持たれなかったという…。

中村:PC、ポリティカル・コレクトネス―「政治的に正しい」って意味ですね。

永瀬:そういうものが美術と結びつく状況をとても分かり易く読解できた本でした。PCアートやその紹介は無論前からあったけど、これだけ明快に欧米でのPC的アートを日本語で理解させたのって、僕個人に限らず、この本が最初じゃないかなっていう気がします。

中村:…ちょっと話が難しくなってきたので、軽くお笑いタイムにしてもよろしいでしょうか? 僕と眞島さんが同じメディアに出ている記事を今回発見しまして、1996年の『ぴあ』にですね、「おもろいアートが炸裂」っていう特集がありまして(笑)。(プロジェクションする)明和電機さんがもうデビューされてるんですよね(特集のトップページに明和電機が掲載)。

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眞島:お兄さんがいた頃ね。

中村:お兄さんいるね。『ぴあ』知ってる? みんな、若い人。『ぴあ』って雑誌があったんです。それでですね、どんなのが紹介されているかっていうと、会田誠(1965-)さんが「貧乏系」アーティスト。

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会場:笑

中村:当時こういう扱いですよ。

永瀬:最近会田さんちょっとキャラ変わってきたよね。

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中村:村上さんまでこういう扱いですからね。世間的にはまだこういうレベルの扱いなんですよ。眞島さんは天ぷらやってやがると。僕は日本画で漫画みたいなのやってると。しかも、「作品はいくらか?」っていうのがお笑いコンテンツとして掲載されているんです。まだコマーシャルギャラリーがそれほどないということがよくわかると思うんだけど、僕らが作っているものが売れるとか、流通するっていうことが、馬鹿にされている。そんなノリが、1996年にはまだ十分にあるっていうことです。

楠見:(スクリーンを見ながら)中村ケンゴに値段がついてますね。

中村:会田さんもついちゃっているし。値段つけることが笑いのネタになってるわけだから今考えるとひどいですけど(苦笑)。

楠見:ああ、でもその意味では、当時は日本の美術界的には「視ることのアレゴリー」とかの方が断然主流で、会田誠も村上隆も明和電機も中村ケンゴもみんな非主流だったんですよ。

永瀬:どういったらいいんでしょうね、変な乖離があって、いわゆる美術館でまともなキュレーションで展示をしているのは「視ることのアレゴリー」なんですが、それがきちんとした評価を受けない。この展覧会には作家がすごい沢山いるのですが、必ずしもフォーマルな意識を持った人ではない方が話題になったりする。

中村:名前は言えない?(笑)

永瀬:(笑)。展覧会全体の中で適切な論点が主流を成したかは怪しいなっていう気がします。 あと、中村さんの記事を見ていて思ったのは、明和電機さんっていうのはすごく象徴的な例、アートが芸能化するっていうことの一つ象徴的な転換点だと思います。今美大に来る人の意識の結構な割合が、いわゆる芸能界デビューと同じようなイメージでアーティスト・デビューっていうのを思ってるんじゃないかなっていう気がする。将来アーティストになるって、つまり芸能人が私はアーティストなのって言い出すのがもうちょっと後なんですが。

中村:本田美奈子さん。

永瀬:そうか、そうしたら同時代か(笑)。明和電機さんとかって、逆に芸能の方法論を美術に取り込んだ。そのときは当然クリティカルだったんだけれども、いつの間にか芸能の方に乗っ取られてしまってですね…。

楠見:ミュージシャンがアーティストって言い始めたのはもっと前ですよ。というのは、明和電機のデビューは「ソニー・アート・アーティスト・オーディション」でグランプリをとった結果なんです。もはやすでに、レコード会社が抱えるミュージシャンが音楽業界でいう“アーティスト”であって、我々は“アート・アーティスト”を探すんですよ、っていうオーディションだったんですよ、あれは。

中村:そうか、「アーティスト」の前にもうひとつ「アート」を付けないと美術家にならない…。

眞島:ミュージック・アーティストじゃなくて、アート・アーティストっていうことですよね。

中村:たしかに飲み屋とかで「アーティストの中村ケンゴさんです」なんて紹介されると、「なんのアーティストですか?」って聞かれますからね…。

永瀬:ミュージック・シーンでは90年代、小室哲哉(1958-)さんの名前は覚えておいていいんじゃないかなという気はします。80年代まで洋楽って言われて日本の独自の歌謡曲と別の流れにあったものを、(はっぴいえんどのような「翻訳」のような作業を通さず)直接取込んでポップ・ミュージックを作っていくっていうのが一般化した時代じゃないかという気がする。そこで一度ダサくなった歌謡曲、という状況へのカウンターとして多分モーニング娘。とかが出る。


    自主企画による展覧会

    スタジオ食堂は、1997年の移転後、アーティストの共同スタジオとしての機能に追加して、自主企画による展覧会を開くためのギャラリー・スペースを併設した。その運用を含むスタジオ食堂全体のディレクションを担当するプロデューサー(菊地敦己と沼田美樹の二名、1998年まで)を加えることで、より総合的なアート組織としての運営形態が模索された。<眞島>


    上祐史浩

    (じょうゆうふみひろ・1962-)元オウム真理教の外報部長で、サリン事件後はマスコミの取材を一手に引き受けるスポークスマンとしてテレビに映らない日はなく、どんな質問に対しても反論して教団を正当化する受け答えから「ああいえば上祐」という流行語が生まれた。早大英語部出身で外国人記者団に英語で反論する様子が「ディベート」という当時まだ聞き慣れなかった言葉とともに報道されたりもした。アーレフ、ひかりの輪と組織を変えてなおオウム残党の中心にいる。ここまで説明してきてなんだがアートとはほとんど関係ない。<楠見>


    柘植響

    (つげひびき)自費出版人/ライター/プランナー。1995年よりアートヴォランタリーマガジン『VOID』を編集・発行。

    VOID

    商業的な美術雑誌よりも早くから小沢剛、大岩オスカール幸男、会田誠、松蔭浩之、中山ダイスケ、チャップマン兄弟らにインタビューを敢行、昭和40年会とスタジオ食堂とYBAをつないでみせた。当時の誌面には「発行の目的」として「情報・流行を追うのではなく、アーティストが作品について語る『場』、インディペンデントな活動も含む表現活動についての議論の『場』であり、アートを身近な話題としてとりあげていきます」とある。さらに『Alternative Link -art and culture』、『日向あき子追悼サイト』、メールマガジン『VOID Chicken Nugget』などを運営・編集。あえて自分の手による自費出版や個人発信のメディアにこだわる姿勢はDIYやオルタナティヴ文化を継承する自由な出版活動のありかたとして、Zineブームの先駆でもあった。<楠見>


    ピエール・ブルデュー

    1930年生まれ、2002年没。フランスの社会学者。藤原書店による1995年以降の「芸術の規則」等の訳出は美術を社会学の立場から読み解くという、0年代以降国内でよく見られた傾向の準備として重要。ここでシンポジウム冒頭に筆者が出した美術の外部からの侵入、つまり文学・アメリカ経済・建築・社会学が出揃ったことになる。<永瀬>

     

    明和電機

    1993年結成、当初は土佐正道(兄、社長)土佐信道(弟、副社長)からなるユニットだった。同年の第2回アートアーティストオーディション大賞受賞。筆者が明和電機の展示を見たのは1997年の渋谷パルコパート3で、VHSテープのビデオクリップを購入している。個人的にはどちらかと言えば「バカテクノ」への関心から興味を持っていた。今でも彼等のマスターピースは初期のとぼけたライブパフォーマンスにあると思う。<永瀬>

     

    小室哲哉

    1958年生まれ。ポップミュージシャン。所属したTM NETWORKの94年の解散時には一報がNHKニュースで流されいろんな意味で度肝を抜いた。ソロ活動としては華原朋美、安室奈美恵らに多数の楽曲を提供している。このシンポジウムで語られた時期はおおよそ小室サウンドが街中で流れており、好悪は別として明らかに時代の空気を体現していた。<永瀬>

     

    会田誠

    1965年生まれ。美術家。アイロニカルな作品で知られるが、無論アイロニーとはシリアスであることの一側面に他ならない。会田が日本の安アパートに潜伏したビン・ラディンに扮し愚痴を言う作品は磯崎新がシンポジウムで引用していた。最近はtwitterで芸大生に苦言を呈する等日本の美術界の未来を憂う事深甚。永瀬は会田こそ芸術院会員に相応しいと信ずる。芸術院に展示される幾多の作品に比べれば「スペース・ウンコ」が展示されている方が遥かにノーブル。<永瀬>




自由‐交換―制度批判としての文化生産 (ブルデューライブラリー)
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20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から
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20世紀末・日本の美術
ーそれぞれの作家の視点から
企画:中村ケンゴ
企画協力:MEGUMI OGITA GALLERY
音響機材:NORISHIROCKS
椅子提供:Civic Art
記録:小金沢智
ビデオ撮影:亀井誠治
販売協力:原花菜子
登壇者
眞島 竜男/現代美術作家
永瀬 恭一/画家
中村 ケンゴ(司会)/美術家
楠見 清(ゲスト・コメンテーター)/美術編集者・評論家
目 次
年表作成の為の参照文献
<年表作成の為の参照文献>
BRUTUS 2008年2/15号『すいすい理解る現代アート』/美術手帖 2005年7月号『日本近現代美術史』/山内崇嗣の美術史年表wikipedia『1990年代』FUKUSHI Plaza 『20世紀略年表』
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