20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から | www.nakamurakengo.com |

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20世紀末・日本の美術


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はじめに/目次
『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』は、横浜美術館にて開催された『20世紀末・日本の美術―何が語られ、何が語られなかったのか?』を含め、 書き下ろし原稿を大幅に加えて書籍化されました。 詳しくはこちらのサイトをご覧ください。

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『20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から』は、美術家の中村ケンゴによって企画されたシンポジウムです。2012年2月24日に、東京は銀座にあるメグミオギタギャラリーにて開催されました。概要についてはこちらをご覧ください。このウェブサイトは、シンポジウムの記録を公開するために開設されましたもので、当日議論しきれなかったことも含め、補足情報も追加しています。現在も情報を追加して内容の充実を図っており、更新情報については、このページで随時お知らせする予定です。[公開:2012/07/23]
 

シンポジムは、1990年代のアートシーンを中心とした年表を作成し、それを元に時系列に沿って議論されました。以下、各年の議論の記録です。
テキスト化・校正:小金沢智(世田谷美術館非常勤学芸員)
 

また、このシンポジウムの続編ともいえる企画が、横浜美術館の奈良美智展の関連トークイベントとして開催されました。

横浜美術館

  • 中村ケンゴ×眞島竜男×永瀬恭一(聞き手:木村絵理子/横浜美術館 主任学芸員)
    「20世紀末・日本の美術 ―何が語られ、何が語られなかったのか?」
    日時:7月28日(土)15:00-17:00(開場14:30)
    ※入場の際に、当日有効の企画展チケットが必要です。詳しくはこちらをご覧ください。

    トークの模様はUSTREAMで中継されました(録画は公開されていません)。


    Live broadcast by Ustream


 
イントロダクション


中村ケンゴ(以下、中村):本日は大勢の方々においでいただきまして、ありがとうございます。この企画は僕が個人的に始めたのですけれども、結果的に素晴らしい登壇者の皆さんに恵まれまして、この貴重な機会を活かすべく、頑張りたいと思います。今回のタイトルは、「20世紀末・日本の美術」と大風呂敷を広げてしまっているのですが、「それぞれの作家の視点から」とサブタイトルがついているように、僕を含めてここにいる三人は作家であって、評論家とかジャーナリストではありません。ですからここで網羅的、体系的に何を語るということはできません。僕たちはだいたい90年代中盤くらいから作家としての活動を始めてきたのですが、あくまでその実践と体験の中で知ったこと、考えたことをベースに、ここでは語りたいと思います。ただ、作家だけで話してしまうとちょっとバランスが悪いなということで、今回は、80年代後半からゼロ年代にかけて『美術手帖』(美術出版社)の編集に携わっていた、楠見清さんにもおいでいただきました。
それでは、今日の議論に臨むにあたって、それぞれ一言ずついただいてもよろしいでしょうか? ではまず現代美術家の眞島竜男さんです。よろしくお願いします。

眞島竜男(以下、眞島):眞島です。よろしくお願いします。90年代の個人史を言うと、私は1989年から1993年までイギリスに留学し、帰国後の1994年に現代美術作家としての活動をスタートしています。ですので、90年代の半ば以降は様々なアートの現場を見てきていますから、今日はそれについて色々と話せればと思います。あと、90年代のアートについて話を進めていく上で、シミュレーショニズム、そして日本の近代美術についての批評精神の浸透、この二つをキーとして最初に挙げておきたいと思います。

中村:ありがとうございます。続きまして、画家の永瀬恭一さんです。

永瀬恭一(以下、永瀬):永瀬と申します。よろしくお願いします。僕が多分一番特徴的なのは、90年代まったくなんにもしていないということだと思います。1989年に東京造形大学に入学しまして、1993年に卒業しました。それからほぼ10年間、公的というか、少なくともここで紹介できるような美術活動のようなものを、まったくしていません。何をしていたかというと、一貫して見ていたと思います。そのことが多分、今日ここにいる皆さんは中村さんを含めて90年代に大変素晴らしい活躍をされていた方たちですので、その方たちとの、対立的というよりは相互的な、補うような関係で話せたらいいなと思います。
僕も二つだけキーを挙げさせてもらえば、まず作品に基づいて奥から手前へという動きがあったなと思います。それから状況論的には、外部からの侵入っていうのが四分野ほどあって、文学、アメリカ経済、建築、社会学という四つの外部から美術に色々なものが侵入してきたなというイメージをもって今日話したいと思います。

中村:続きまして、編集者、美術評論をされています楠見清さんです。

楠見清(以下、楠見):よろしくお願いします。僕は、1986年に『美術手帖』の編集部に入って……。

中村:それは美術出版社に入社されたということですか?

楠見:そうです、それで編集者としての僕がいちばんラディカルだったのってDr.BTを名乗っていた1989年から92年までだと思うんですけど、『美術手帖』でやりたい放題やりすぎたこともあって他の部署に異動させられてしまったんですね。増刊・別冊や書籍の編集を7年間ほどやったあと『美術手帖』に副編集として戻ってきたのが1999年。だから実は僕も90年代は美術には直接は関わっていなくて、要するに何をやっていたかというと美術の周辺にあるニッチな本をつくらされる羽目になってた。

中村:『コミッカーズ』の編集部にいらしたのですよね。

楠見:ええ、そうです。でも、それは期せずして、いまにして思えばサブカル・ブームの中心に居合わせたともいえるんですけど、やはり美術の現場はうらやましかった。オレだったらもっとこうするのになあとか思いながら指をくわえて眺めていた部分があるんです。そのジレンマが今日の客観的な判断になにかお役に立てばと思いながら、お話ししたいと思います。よろしくお願いします。

中村:私は美術家の中村ケンゴと申します。よろしくお願いします。
今日は基本的に三つのことを柱に話していきたいと思います。一つめは、90年代から現在までに流れる表現の潮流というか、軽く言えば流行みたいなものは何があったのかということ。二つめは、アートマーケットの問題、要するに儲かっとんのかいという話です。三つめは、それに関連すると思うのですが、アーティスト・サバイバルの問題です。2012年まで、日本の、東京のアーティストはどうやって生きてきたのか。ここにいるのは結構オッサンなので、生き証人だと思います。話せるところは話して下さい。

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ただこの三つの話をそれぞれ分けて話してしまうとちょっと難しいなと思いまして、今回はこのように年表を作りました。この年表に沿って時系列で語りながら、三つの要素を縦軸として話していきたいと思います。1989年から2001年を基本として考えていますので、十数年をこの二時間で一気に駆け抜けるということになりますので、皆さんも付いてきて下さればと思います。じゃあいきますね。


    シミュレーショニズム

    「なぜシミュレートする(した)のか?」という点は、改めて問われる必要があるだろう。「表象の権力構造を批判するため」、「エスタブリッシュメントに対する嫌がらせとして」、「消費主義社会の虚無を生き抜くため」、「知的ゲームとして」、「かっこいいから」、「他にできることがないから」、等々。いずれにせよ、そこに(消極的なものであっても)解放の感覚があったのは確かなように思われる。<眞島>


1989年(平成元年)
1989年
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:まず、1989年からいきます。(年表の)一番向こうですね。90年代を話すと言いながら、なぜ1989年からやるのかと言うと、1989年というのは日本においても世界においてもかなり重要な年なんですね。何があったかというと、マルタ会談があって、米ソの冷戦が終結しました。これは相当大きな影響が美術にもあると思います。もう一つ、それに伴ってベルリンの壁が崩壊しました。多分皆さん子どもの頃は、東西ドイツが一緒になるとか、ソビエトがなくなるなんてことは、思いもよらなかったことだと思うんですけど、そういうことが起こった年です。 日本では何があったかといいますと、昭和天皇が崩御しています。天皇が亡くなられて、昭和が終わりました。非常に大きな事件ですね。ただ一方バブルの時代でもあって、かなりウハウハな感じです。そんなのみんな知らないと思うけど(笑)。

眞島:バイトにまったく困らない時代でしたね。

永瀬:それはすごいありましたね。

中村:眞島さんはその年にロンドンのゴールドスミス・カレッジに入学されているということですね。なぜロンドンの大学に行こうと思われたのですか?

眞島:ゴールドスミス・カレッジは日本人留学生の枠を用意していました。というのは、要するにお金ですよね。海外からの留学生が払う学費が大学の経営には必要だということで、アジア諸国からの枠を用意して、それを積極的にプロモートして、日本にもイギリスから大学の関係者が来て、全部オーガナイズして営業をやっていたわけです。それで、私は1989年にまずその基礎過程にコースに入って、学部にはその後で改めて面接などの試験を受けて入学しています。90年代初頭はそういう動きが活発だった時期で、というのは、当時のイギリスの経済はどん底で…。

中村:日本は最高。

眞島:そういうことです。そこには完全に経済の差があって、それで動いていたということです。

中村:他のロンドンの美大でもそういう動きがあったのですか?

眞島:あったと思います。

中村:たとえばチェルシーとか、他にも大学があるじゃないですか。なぜゴールドスミスだったのでしょうか? ゴールドスミスはわりとコンセプチュアルな美術教育をするところで有名ですよね。

眞島:最初は、そういうのを全然知らないで行ったんですよ。私が通っていた高校に、ロンドン大学から留学生募集の書類が送られてきていたんですね。たぶん、あちこちの高校にばらまいていたんだと思います。私は美術部だったのですが、顧問の先生が「こういうのあるけどどうだ」と教えてくれて、ものは試しでやってみたという経緯です。全国の高校に送っていたんじゃないかな?

中村:美術系の高校に行ってたんですか?

眞島:いえ、県立の普通高校です。まず基礎過程に入って、その後でゴールドスミスっていうのはコンセプチュアルな学校だということを、そこで知った。そういう順序です。

中村:ゴールドスミスはダミアン・ハースト(Damien Hirst/1965-)も出てますけれども、ダミアンは何年上だったんですか?

眞島:それは、正確には分からないんですけれども、1989年の夏に、たぶん彼の学部かマスターの卒展の展示を見ています。薬瓶のキャビネットの作品です。

中村:なるほど。楠見さんはさきほどおっしゃられましたけれど、もうBT(『美術手帖』)編集部に入られているということですよね。なぜ美術関係のところに行こうみたいに思われたのですか。

楠見:マスコミ志望で出版社に入りたいというのがあったんですよ。当時、80年代って雑誌の黄金時代で、ニュースの中心、文化を動かすエンジンの役割を雑誌が担っていたんです。僕は大学では古典的な美術史を専攻しながらも、先輩が持っていた『美術手帖』を見ながら現代美術という現在進行形のシーンがあることを知ったりしたわけだけど、その辺で自分の関心のある領域で世の中動かす、っていったらなんだろう、『美術手帖』がいいなぁというストレートな発想で。

中村:実際『美術手帖』に入って、当時のアートシーンとかを見ることになると思うんですけど、1986年に入ったときって、どんな印象でしたか? 実際に入ってみて、どんな感じがしましたか?

楠見:美術界っていうよりは、当時の出版界の状況からお話しすると、僕が入ったときには、まだ編集部にパソコンどころかワープロもない。机の上には原稿用紙と赤青鉛筆(笑)。ファクスはあったけどまだ一般家庭にはないから、結局どうしてたかというと、原稿は筆者の人の自宅近くの駅前の喫茶店で待ち合わせて……。

中村:僕もマガジンハウスでバイトしていたんですけど、原稿取りに行ったりしてましたね。

楠見:そうですよね。そんな原始的な出版環境からだんだんと家庭用ファクスが普及したり、ワープロで文字入力したのをフロッピー入稿できるようになったり、そしてMacでDTP化していくという、いわば編集の技術革新のプロセスの中で編集の仕事を続けてきたわけなんだけれども、その意味では僕は編集者として最後のアナログ世代であったと同時に最初のデジタル世代でもあった。それは美術家がメディアになっていくという過程にも重なると思います。

中村:作家自身がということですか?

楠見:作家自身がインディーズで出版物をつくったり──中ザワヒデキ(1963-)さんの『近代美術史テキスト』やフロッピーマガジン『JAT』、中村政人(1963-)さんの『美術と教育』などですね──を作ったり、八谷和彦(1966-)さんは最初海賊テレビ放送をやっていた。何か情報を発信したい、そういう感覚が編集者とアーティストの枠を越えて、確実に俺たちの間でなにか始めてるなっていう感じはありましたよね。編集部ではまだ駆け出しのペーペーだったけど、同世代の編集者やまだ無名だった頃のアーティストと知り合いながら新しいフィールドでボールを転がし始めた。銀座や神田中心の画廊界とは別の場所で夜のクラブ活動──ここナイト・クラビングと部活をかけてます(笑)──みたいなノリで、新しいアートシーンが始まっている感覚があったんですよね。

中村:なるほど。どんどんいきますけれども、ちょうどこの年、幼女誘拐殺人事件っていうのがあって、宮崎勤という犯人の家を捜索したら、大量のアニメビデオがあって、初めて「オタク」っていう言葉が一般化するときなんですね。
さらに話は飛びますけれども、美術史、美術批評における非常に重要な本が出ています。この、北澤憲昭(1951-)先生の『眼の神殿』(美術出版社)という本なのですが、ここには、日本の近代美術がどのように生まれたかっていうその起源が書かれているんですけれども、こうした美術史評論と、オタクっていうのがある意味合わさって、「スーパーフラット」が生まれていくなんていうことも、実はあるんですよね。眞島さん、この本についてなにか。

眞島:『眼の神殿』については、やっぱり90年代を通して、かなりの影響力を持った本だということは確かですね。北澤憲昭自身は、オタク・カルチャーですとか、スーパーフラットに直に繋がるわけではないのですが、椹木野衣(1962-)や村上隆(1962-)の言説は、相当これを下敷きにしている。

中村:そうですね。昨年(2011年)、浅草寺で小沢剛(1965-)さんが藝大の学生使って油画茶屋っていうのやりましたよね(「油絵茶屋再現 :アートサイトクルージング」)。まさにこの本に書かれているようなことだと思うんですけれども。ともかくようやく80年代も終わりになって、「日本の美術ってなんだろう?」っていう起源探しが始まったというか。

眞島:ポスト構造主義の、フーコー的な考古学のアプローチで書かれた本だったはずなんですね、当時は。この本で、美術というものに、美術という言葉に改めて光が当たり、20年かけて徐々に一般化していったんだと思います。

中村:そうですね。今、こんなに日本美術ブームって信じられないですよ、この頃のこと考えたら。

永瀬:雑誌、出版、起源というキーワードから言うと、多分これ役割的に言わなきゃいけないことだと思うのですが、1988年に『季刊思潮』(思潮社、〜1990年)というのが柄谷行人(1941-)さん中心に始まっている。それから、柄谷行人さんは当然70年代から活動されているのですが、1988年頃から一気に文庫化されるんですよ、色んな著作が。これは今日の話の基調になっていくと思うのですが、『日本近代文学の起源』という本が文庫化されたのが1988年です(講談社学芸文庫/初刊は1980年、講談社)。これが多分基底音になっている感じがします。たとえば、北澤憲昭さん、あと椹木野衣さん『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)もそういう所があると思いますが、「〜の起源はこうだと思われているが、実はこうである」という論法で、それでこの10年全部乗り切れられるんですよ、言説が。それって誰が始めたかというと、柄谷行人なんです。このことは多分イメージしておいた方がいいと思います。


    バイトにまったく困らない時代

    いわゆるバブル期は、時給2,000円のバイトがざらにあるような売り手市場の時代だった。若いアーティストがアルバイトだけで生活費と制作費を十分まかなえたわけで、これが当時のアート・シーンに影響を与えなかったはずはないと思う。<眞島>


    ゴールドスミス・カレッジ

    ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ(Goldsmiths' College, University of London)。1990年代にダミアン・ハーストらYBA(Young British Artists)を数多く輩出し、国際的に大きく知名度を上げた。2006年からの経営上の名称はGoldsmiths, University of London。ちなみに、筆者の同級生にはスティーブ・マックイーン(Steve McQueen)やジェイソン・マーティン(Jason Martin)がいる。 http://www.gold.ac.uk/ <眞島>


    『眼の神殿』

    北澤憲昭著『眼の神殿 「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年)。〈偽史〉としての日本近代美術史の起源を「美術」という言葉の受容プロセスから読み解く名著。90年代半ばから目立ち始めた日本(近代)美術(史)を扱う作品の多くは、本書が提示した歴史観を(間接的にせよ)下敷きにしている。以後、『美術という見世物 油絵茶屋の時代』(木下直之 著、平凡社、1993年)、『〈日本美術〉誕生 近代日本の「ことば」と戦略』(佐藤道信 著、講談社、1996年)、『語る現在、語られる過去 日本の美術史学100年』(東京国立文化財研究所 編、平凡社、1999年)、『美術のゆくえ、美術史の現在 日本・近代・美術』(北澤憲昭+木下長宏+イザベル・シャリエ+山梨俊夫 編、平凡社、1999年)など、日本の近代美術史についての書籍が90年代に相次いで出版された。<眞島>


    柄谷行人

    1941年生まれ。文芸批評家。中期の「形式化の諸問題」等は原理的論考で、筆者は当時「隠喩としての建築」を美術批評として読んだ。だがそれに対応しえた美術言説は後の岡崎乾二郎「経験の条件」のみである。初期の「日本近代文学の起源」が日本の近代美術再考に大きく影響したのに比べると、柄谷の中心的仕事に応答可能な美術側が脆弱だったことは事実だろう。<永瀬>


    季刊思潮

    88年創刊で後の「批評空間」の前身。この雑誌が出る迄は岩波書店の「へるめす」が著名な思想誌としてあった。しかし「へるめす」は1994年に終刊。今では忘れられているが「へるめす」から「季刊思潮」というバトンタッチは改めて記憶されていいと思う。<永瀬>




眼の神殿―「美術」受容史ノート
眼の神殿―「美術」受容史ノート
定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)
定本 日本近代文学の起源 (岩波現代文庫)
1990年(平成2年)
1990年
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:ではどんどんいきますね。1990年です。1990年は世界はまだ激動中。東西ドイツが統一します。日本はまだバブルなんですね。ソビエトもちょっとヤバくなってきて、「グラスノスチ」と呼ばれる情報公開が始まって、ソビエトのアートが西側に入ってくる。確か『美術手帖』でも「ソッツ・アート」というソビエトアートの特集やってますよね(「特集=モスクワ1990」、1990年6月号)。

楠見:それは椹木さんがモスクワに行ってきてつくった。当時椹木さんと僕とはなんとなく別々の守備範囲で、その頃、関西のレビュー欄担当でなにかと理由をつけては新幹線で出張取材してました。ダムタイプやコンプレッソ・プラスティコやヤノベケンジさんなどが出てきたときに、真っ先に駆けつけて取材して誌面をすっぱ抜くというのが、インターネットがなかった時代の雑誌編集者としての僕のプレー・スタイルでした。

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中村: 80年代は「関西ニュー・ウェイヴ」と呼ばれた時代で、石原友明(1959 -)さん、森村泰昌(1951-)さん、中原浩大(1961-)さんとかですね。まだ東京よりも大阪・京都の方が盛り上がっていた。

眞島:西高東低ってやつですね。

1991年(平成3年)
1991年
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:次行くよ、1991年。湾岸戦争、ソビエトが無くなりました。

永瀬:『批評空間』(福武書店)の第1期がこの年に始まってるんですね。

中村:柄谷行人さんの『批評空間』ですね。で、レントゲン藝術研究所がオープンしています。これも非常に大きなポイントだと思うんですけれども、多分今のラディウム(2008年3月〜)をご存知の方はちょっとイメージできないと思うんですよ。大田区の京急線沿いにあった、かなり大きな空間を持ったギャラリーでした。それから佐賀町エキジビットスペース。

永瀬:水天宮の近くって言った方がいいのかな? 食料ビルっていう古い建物があって、佇まいがよかったんですね。そこに当時勃興してきたコマーシャルギャラリーが入るみたいな展開だったと思います。

眞島:その前段階として小池さんがやったことは…。

中村:小池さんというのは佐賀町エキジビットスペースの代表の方ですね。

眞島:そうです。小池一子(1936-)さんは、日本の現代美術シーンで、たぶん最初と言って良いと思うんですが、オルタナティヴ・スペースをきちんとした形で作った人ですね。

中村:小池さんというと、皆さんには無印良品のコンセプトを作った人ということで有名かもしれないですね。それからこの年ですね、椹木野衣さんの『シミュレーショニズム』(洋泉社)が出ています。今繋がりましたね。柄谷行人さん、北澤憲昭さんがあって、椹木さんの『シミュレーショニズム』が出たということです。これは僕らの世代のアーティストにとっては非常に影響力の強い著書だったと思うんですけれども、当時椹木さんって『美術手帖』の編集部にいらっしゃったのですか?

楠見:ええ。椹木さんとは同期入社なんです。

中村:一緒にお仕事されてたと思うのですけれども、シミュレーショニズム来てるぜ、みたいなことがあったんでしょうか?

楠見:ええ。海外の主要なアート雑誌がエア・メールで届いてたし、『美術手帖』の海外ニュース欄に記事を書いてくれている筆者とのファクスや国際電話でのやりとりで、ネオ・ジオが赤丸急上昇中みたいなアートの最新情報は日本で一番早くキャッチしてたと思う。

中村:ネオ・ジオっていうのは「ネオ・ジオメトリカル(neo-geometrical)」の略で、「新しい幾何」という意味です。

楠見:アートに限らず海外の情報はまず最初に専門雑誌の編集部に集中してた。一般ピープルとの差は大きかったし、新聞やテレビも専門誌の後追いで記事を作っているのが現場にいるとよくわかりましたね。

中村:そういう時代ですね。今みたいに先にツイッターで知るとかない。

楠見:で、編集部内でたとえばこのピーター・ハリー(Peter Halley/1953-)がすごいっていうのを記事にしたいんだけど、「誰に書いてもらう?」って言ったときに、「いないよね」、って。「じゃ、自分で書くしかない」、みたいな。椹木野衣もDr. BTもそういう必要性が生んだ社内覆面ライターだったんです。

中村:ピーター・ハリーなんか誰も知らんし、書けるライターがいないと。なるほどね。当時僕は美大に通ってましたが、授業でウォーホル(Andy Warhol/1928-1987)とか言っている先生が、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドも、トーキング・ヘッズも聴いたことがないわけですよ。アホかという。椹木さんが出てきて、初めてそうしたポップ・ミュージック/ポップ・カルチャーと最新のアートを結びつけるようなことをされた。

楠見:そういう意味では、ロックを聴いていた世代にとっては、ニューヨークやロンドンのアートシーンはこれまで趣味の領域にあった事象と現代美術の動向を、ひとつの繋がりとして、そして広がりとして、わずかな情報からでも大いに想像力を喚起してくれたんですよね。

永瀬:音楽でいうと、アナログレコードからCDへのチェンジが1989年、1990年くらいにバーッと起きてきた。町中のレンタルレコード屋で、大量にアナログレコードが1枚100円くらいで売られて、つまりCDに入れ替えるわけですから、そういう所で、ペンギン・カフェ・オーケストラですとか美大生が買いそうなレコードを買っていた記憶がありますね。

眞島:1988、1989年頃ですね。私が高校2、3年生くらいのとき。

中村:これが1991年に出たソニック・ユースのアルバムですけれども、(ジャケットに使われているのは)マイク・ケリー(Mike Kelley/1954-2012)の作品ですよね(プロジェクションする)。それまで大学ではポストもの派みたいなものがほとんどを占めていたから…先生たちは木を切ったり石をゴロゴロやっているわけですよ(笑)。そんな中で「やっと僕たちの時代が来た!」みたいな気持ちがあって…。

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楠見:ソニック・ユースはこれ以前にもレイモンド・ペティボン(Raymond Pettibon/1957-)やゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter/1932-)をジャケにしてましたからね。

中村:これですね(プロジェクションする)。こういうのでグっときてました。ただの若者でしたから(笑)。それからハウス・ミュージックの盛り上がりもあって…。

楠見:それまで王道とされていたフォーマリスティックな絵画理論では語れないようなアーティストが台頭してきた。だったらこれはむしろ音楽の論理で語るべきだという機運が、瞬時にしてボッと火がついた瞬間でしたね。

中村:ポップっていうものが批評的に機能することになった。

楠見:うん。シミュレーショニズムが出て来るまで、ポストモダン全盛の80年代においてポップは60年代の思想というか、今でいうならオワコンとして時代の裏側にあった。もちろんウォーホルがバスキア(Jean-Michel Basquiat/1960-1988)をプロデュースしたりするのは現象としてポップではあったけれど、ジェフ・クーンズ(Jeff Koons/1955-)のバスケット・ボールのレディメイド(《two ball 50/50 tank》、1985年)が出現してようやく思想としてのポップというか、ポップ・アート本来のダダ的側面が再評価されたわけです。

中村:眞島さん、ロンドンの学内でもシミュレーショニズムが強く入ってきてるなっていうのを意識されましたか。

眞島:どこの美術学校もそうだと思いますが、流行っているものに染まるというのはやっぱりあって、さっき話が出たネオ・ジオ、幾何的でクールな抽象、ああいったスタイルの絵を描き始めた学生が1990年代の頭頃にはいっぱいいた。そういう形で、シミュレーショニズムの波は来ていました。

楠見:その波が来る前までは、ニューヨークではジュリアン・シュナーベル(Julian Schnabel/1951-)や3Cといった新表現主義とキース・ヘリング(Keith Haring/1958-1990)やバスキアが混在して流行っていて……。

眞島:私がイギリスに行った頃は、抽象表現主義的な絵画のプラクティスが依然としてあって、それから80年代のニュー・ブリティッシュ・スカルプチャー的なもの、あと版画とか、カリカチュアとか、そんなのもありましたね。

中村:ロンドンっぽいね。

眞島:ただ、ゴールドスミスという学校は、理論的というよりは、どちらかというとアメリカ的な学校としてキャラクタライズした方がいいと思います。アメリカ的なカリキュラムで教える学校である、と。いわゆる授業がなく、学生はそれぞれ適当にスタジオに行って仕事をして、時々先生と話をする、というスタイルです。

永瀬:その幾何的なものがそれまでのいわゆるペインタリーな絵画とか塑像とかと比べてシャープに見えたっていうのと関連すると思うのですが、建築が当時美大にいた人間にとってシャープに、カッコいいものとして見えた。

中村:建築っていうジャンルが?

永瀬:うん。当時あったイージーなニューペインティングとの対比でデコンなどのロジックを背景に持った建築が新鮮だったんですね。具体的に言うとANY会議(Any Conference)っていうのが、1991年に始まっている。磯崎新(1931-)さんが、浅田彰(1957-)さん、先ほど言っていた柄谷行人さんたちと一緒に、こっから10年間かけてアイゼンマン、あるいはデリダらと同じテーブルについた。『Anywhere』等の雑誌も出た。そういうものがカッコよく見えたっていうことと、もう一つは、いわゆるポップ・アートとハイアートって今の文脈だと分けられて語られがちだと思うんですけど、このときそんなに分かれていなかった。80年代からですが、「ポップかつハイ」っていうのが浅田彰さんに対する形容だった。

中村:ポップかつハイ? カッコいいね。今じゃあありえないね。

永瀬:そういう文脈が当時はまだ活きていて、たとえばネオ・ジオとかに関しても抽象度の高い美術であったわけで、単純にポップって言っていいのかハイって言っていいのかわからない。それらとリンクする形で建築を想起しておいていいと思います。

中村:建築とネオ・ジオを合わせた話だと、僕の《コンポジション・トウキョウ》っていう作品で、ワンルームマンションをモンドリアンのように表したのは、まさにピーター・ハリー(Peter Halley/1953-)のイメージと、大量にあるっていうのはアラン・マッカラム(Allan Mccollum/1944-)のイメージだったんですね。あとシェリー・レヴィン(Sherrie Levine/1947-)も入れてもいいんですけど。

楠見:うわ。染まってますねえ。

中村:そうですね(笑)。でも僕は当時美大の日本画専攻にいたのでその孤独感たるやすごいんですけど。

眞島:アラン・マッカラムとか、ピーター・ハリーとか、どれくらいの人が名前を知っているかっていうと、多分若い方はほとんど知らないんじゃないかと思います。ピーター・ハリーだけでなく、その時期に集中して色々なアーティストの名前が出てきた。それって、『美術手帖』などのメディアの力が相当大きかったですよね。

中村:でね、シミュレーショニズムっていうのはボードリヤールなんかを援用した理論があったけれども、当時の僕にとっては、たとえば予備校なんかで石膏デッサンとかするでしょ? すると先生が「これはケンゴの絵じゃないな。もっとお前らしい絵を描け」とか言われるわけですよ。大学に入ってもそんな感じなんですよね。でも自分らしい絵なんてよくわからないわけですよ。そんな袋小路に入っていたときに、シミュレーショニズムの手法っていうのは、自分を表すのではなくて、ある種の引用/盗用によって作品を作る…。

楠見:サンプリング、カットアップ、リミックス。

中村:そう。ただ、生き生きとした芸術というよりは、死みたいなもの? あとは無意味みたいなもの? っていう感じで、むしろそれが僕にとってすごく救いになった。

楠見:へえ。僕はシミュレーショニズム、というかネオ・ジオからネオ・ポップの流れにはむしろスピード感やグルーヴ感があったと思うんだけどなぁ。死みたいなものというのはどういうこと?

中村:ゾンビっぽいというイメージもあった(すでに死んでいるからもう死ぬことはない)。とにかくね、自分らしい絵を描けとか、内面を表現しろっていうのは全然意味が分からなくて、それこそ『日本近代文学の起源』じゃないですけど、そんなもんないよと。でもアートやりたいっていうこの矛盾した感じ?(笑) そんな中でネオ・ジオとかシミュレーショニズムの手法が僕の最初の表現のきっかけになっていますね。

眞島:それは、私も完全にそうです。シミュレーショニズムっていうのは美術の理論だけれども、すごく砕けた言い方をすると、当時の若者の青春に真っ直ぐ突き刺さったものでもあったんですね。


    批評空間

    柄谷行人が浅田彰と共に編集した批評・思想雑誌。幅広い分野に渡って水準の高い理論誌となっていた。書き手としては東浩紀を輩出していくなど、後々非常に強い影響を及ぼしていくことになる。<永瀬>


    無印良品

    株式会社良品計画が展開する専門小売業者。西友のプライベートブランドとして1980年にスタート。1983年に 青山に直営店を出店。小池一子は田中一光とともに、メインの企画者として創設に関わる。<中村>


    レコードからCDへの移行

    アナログ盤としてのレコードの力は単に音楽だけでなく、そのジャケットによるデザインワークにも強いものがあったことは本編でも語られている。CDへの移行によってサイズが小さくなったことはグラフィックメディアとしての発信力の低下も意味していた。<永瀬>


    3C  

    サンドロ・キア(Sandro Chia/1946-)、エンツォ・クッキ(Enzo Cucch/1950-)、フランチェスコ・クレメンテ(Francesco Clemente/1952-)。当時人気のイタリア現代絵画の御三家の頭文字をとって3Cと呼ばれた。<楠見>


    流行っているものに染まる

    1990年代初頭、ゴールドスミス・カレッジではハードエッジな抽象絵画がちらほら見られた。木工では手仕事感の少ないMDF材が、写真ではクールな風合いのRCペーパーが好まれる、といった風潮もあったように思う。<眞島>


    ニュー・ブリティッシュ・スカルプチャー

    1980年代の英国において「アンソニー・カロ以後」として現れた一連のポストモダン的な彫刻の動向。代表的な作家として、トニー・クラッグ(Tony Cragg)、リチャード・ディーコン(Richard Deacon)、リチャード・ウェントワース(Richard Wentworth)らが挙げられる。日本にファンが多い(ような気がする)。<眞島>


    ANY会議

    建築のアートに対する優位は政治・経済といった社会的文脈に規定されながら抵抗原理として形式的な問いを手放さなかった所による。日本の建築は造形芸術として強力に近代というエクササイズを続けており、水準は世界的であった。またバブル期は日本は建築万博の様相を呈している。筆者は少し後に、今は廃棄されたアイゼンマンによる「布谷ビル」を見に行っている。<永瀬>


    磯崎新

    1931年生まれ。建築家。評価及び実力で言えば安藤忠雄など足下にも及ばない筈だがなぜか東京では冷遇されていて、都心にマスターピースがない。どころかお茶の水スクエアのカザルスホールなどは使用停止の憂き目にあっている。東京都新都庁舎(90年)、東京芸術劇場(90年)、江戸東京博物館(93年)、東京都現代美術館(95年)、東京国際フォーラム(97年)を東京の五大粗大ゴミと言ったのは有名。<永瀬>


    浅田彰

    1957年生まれ。京都大学助教授を経て京都造形芸術大大学院長。このシンポでは触れなかったがNTTによるメディアアート美術館ICC設立に協力(1997年)し、雑誌『InterCommunication』も発刊した。経済学の出自ながら殆ど「歩く芸術google earth」とも言える経験備蓄を持つ。しかし油断していると変な事も言うので注意。<永瀬>

     

    「ポップかつハイ」

    浅田彰に対するE.V.Cafe内での柄谷による評。しかしこの表現は時代の空気も表していた。本格的な美術理論雑誌「FRAME」は岡崎乾二郎を中心に90年に創刊し91年まで3号続くが、ここには荒川修作、ルイ・カーンといった名前と並んで岡崎京子、ギルバート&ジョージという名前もあった。発刊元がインテリア会社のIDÉEであることにも注目。実にコアな試みがポップに行われていた。<永瀬>

     

    コンポジション・トウキョウ

    中村ケンゴが1994年から発表している作品のシリーズ。日本画技法によって東京に実在するワンルーム・マンション、単身者用のアパートの間取りを描いている。

    http://portfolio.nakamurakengo.com/?cid=1

    <中村>


    ジャン・ボードリヤール

    フランスの思想家でポストモダン思想の代表的存在。現代の大衆消費社会を独創的に分析。著書に『消費社会の神話と構造』『象徴交換と死』『シミュラークルとシミュレーション』『湾岸戦争は起こらなかった』など。ボードリヤールの哲学は映画『マトリックス』にも影響を与えている。

    <中村>




シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)
シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)
1992年(平成4年)
 1992年
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:1992年は、のちにバブル崩壊と言われる年だけれども、僕ら学生だったのであんまりピンときていない。ただ1989年に35,000円までいった平均株価が、1992年2月には20,000円を切って、8月には15,000円を切ると。最終的に2003年に7000円まで下がってしまう。今っていくらくらい?

永瀬:9600円くらい。

中村:当時、35,000円くらいまでいっていたのが急に15,000円くらいになった。100万円で買った絵が、オークションで突然30万円くらいになっちゃった、みたいなことが起こっているのですが、この年に『美術手帖』で「ポップ/ネオ・ポップ」という非常に重要な特集号が出ています(3月号)。今回のポスターにも使ったんですけれども(記事をプロジェクションする)。
これは「日本におけるネオ・ポップとは何か?」っていう図なんですけど、デュシャンの便器が「デュシャーン!」とロボットに合体してるっていう(笑)。これ楠見さんが作ったんですか?

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楠見:うん。ラフスケッチ描いて、デザイナーにこれ版下に起こしてくれと。「ポップ/ネオ・ポップ」特集は三章立てになっていて、ブリティッシュ・ポップ・アートをピンボール・マシンに、アメリカン・ポップ・アートをバイクのエンジンに喩えた模式図が前段階にあって、そのあとに「もしこれから日本にもネオ・ポップがありえるとすれば」という仮想概念図を合体ロボに喩えたんです。オタク要素が合体して、そこへデュシャンの便器がパイルダー・オンする──見た目はザクの頭部なんですが動きはマジンガーZという、オタク世代にだけわかるネタだったんです。

中村:デュシャンということは、表現主義的じゃなくて、どっちかっていうと死とか無意味っていうか、そっちの反芸術的なイメージなんですよ、中ザワヒデキさん流に言えば。

楠見:そうね。タナトスと同時にエロスでもあるけど、ここではコンセプチュアルの象徴としてやっぱり便器(マルセル・デュシャン《泉》1917年)でしょと。コンピュータやアイドルやアニメといったオタク系のサブカル要素──当時は僕らの世代も恥ずかしいと蔑んでいて、上の世代からは眉をひそめられるような非美学的なものを合体させて現代美術のコンセプトで統合制御せよ、これがジャパニーズ・ネオ・ポップである、とぶち上げてみせたんだけど、この仮定的提案は当時の美術界では完全にスルーされましたね。

中村:でもスルーって言ってもこのメンバーですよ(記事をプロジェクションする)。中原浩大さん、ヤノベケンジさん、村上隆さん。みんな、若!(笑) 以前から中原さんは結構でてましたけれども、この三人がガッとこの号から出てくるって感じですかね。

楠見:それこそレントゲン藝術研究所でこのあと開催される「アノーマリー展」の出品作家なわけだけれども。

中村:「アノーマリー展」、これ当時のDMです。…「レントゲン藝術研究所では、1992年9月4日よりゲストキュレーターに椹木野衣を迎え、伊藤ガビン、中原浩大、村上隆、ヤノベケンジの4人の作家による「アノーマリー展」を開催します」。僕は初日のオープニングパーティーに行ったんですけど、本当に大変なことになっていました。

眞島:何人くらい来てました?

中村:いや、もう、ギュウギュウ。

楠見:なんというか、1960年代のウォーホルのファクトリーみたいな感じ。

中村:みたいな感じで、当時、SMTVっていうのをやっていた八谷和彦(1966-)さんが全身にちっちゃな液晶テレビつけてウロウロしてたりとか(笑)、ともかくカオティックな状況で。なんていうのかな、当時ディスコが終わって、クラブカルチャーがきてるんですけど、ギャラリーがクラブ状態になるっていうのを、身をもって体験したというか。夜遊びとアート初めて一緒になった、そういう感じでした。

楠見:「ポップ/ネオ・ポップ」特集は「アノーマリー展」より半年早かった。実はこのとき「楠見はもうBTから外せ」っていう人事異動が決まってたんですよ。それで、最後の一ヶ月でうわーっと。

中村:この号はやり逃げ?

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楠見:っていうかこれをやらずに、俺はこの場を離れることはできないという責任感ですよ。日本の未来のアートが僕にははっきりと見えているという確信がありましたから。当時、オタクがポップ・アートのモチーフになるなんてことは誰も発想として言っていなかったんだけれども、それは言っておきたいっていう感じで、その蒔いた種が10年後くらいにわっと出たっていうそんな感じでしょうかね。

中村:僕はそのとき楠見さんが干されたっていうのは知るよしもないですが、確かに急に『美術手帖』の「BT」って字がまた小さくなって、なんだろうって。

楠見:コンサバティブになるんだよね。若手のスタッフ三人がいっぺんに外されて、年配の編集主幹と編集長を降臨させるというテコ入れだったから。記事があまりにもとんがりすぎたから、まぁここらで、メンバー交代みたいな。

中村:あと、バブル崩壊っていうのもあるんですか?

楠見:うーん。売り上げ的にはむしろよく持ちこたえていたつもりだったんですが、経営者としてはコンサバ路線に舵を切ることで何かしたいという意図はあったかもしれないですね。ただ、その後部数は減ったはずで、1999年に僕がBTに戻されたときに与えられたミッションはサブカル路線で部数を増やせ、だったんです。あの雑誌は歴史的にみて前衛路線とコンサバ路線を何年かおきにスイッチすることでマンネリ化を避けてきたという利点もありますね。


    「もしこれから日本にもネオ・ポップがありえるとすれば」という仮想概念図


    BTBT


    これに先行して楠見はレントゲン藝術研究所機関誌『Radium Egg』第1号(1991年12月)にDr. RE名義で寄せたコラムにおいて、もはや退屈で無意味な美術史の息の根を止めるための「最終芸術の11の条件」を掲げたが、そこに掲載した自筆のエスキースにもすでにさまざまな作品が合体し、頭部がデュシャンというアイデアが見られる。<楠見>


1993年(平成5年)
 1993年
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:1993年は、はじめて自民党じゃない野党の連合政権が生まれます。細川護煕首相だったんですね。僕は細川首相になったとき、すごいわくわくしたのを覚えていて、なぜかっていうと細川さんっていうのは細川コレクションというたいへんな日本の美術のコレクションをもってらっしゃるお殿様で、首相官邸にあったそれまでの絵を全部外して、自分の好きな絵に替えたんですよ。そんなことをやる日本の首相は初めてだと思ったので、「アートが分かる総理大臣がきた」なんて思ってたんだけど、次の年には自社連立政権という、わけのわからない展開になるという…。ダイムラー・クライスラーよりびっくりしましたよ僕は(笑)。

楠見:誰が首相になっても世の中変わらないっていうのはその辺から始まってるんじゃないの。

中村:で、1993年何がありましたかっていうと、中村政人さんの「ザ・ギンブラート」。アーティストたちが、銀座通りを神輿でガーッとやるっていう。

楠見:神輿の上には宇治野宗輝(1964-)さんが乗っていますね。

中村:それで、白バイまで来ちゃう騒ぎになったのですが、このあとに「新宿少年アート」っていうのも翌年の1994年にあるんですね。

楠見:「ザ・ギンブラート」というのは当時20代のアーティストたちによる銀座の画廊界に対する叛旗だったんです。「新宿少年アート」はその勢いがさらに都市のカオスたる歌舞伎町に飛び火した瞬間でした。

中村:そう、これは(小沢剛さんの)「なすび画廊」ですね(プロジェクションする)。銀座のなびす画廊ってご存知ですか皆さん? なびす画廊のあるビルの下の道路に牛乳箱を置いて、なすび画廊っていって、この箱のなかで誰かが個展をやるっていう。この画像はピーター・ベラーズ(Peter Bellars/1959-)の個展なんですけれども。 ともかく発表する場所がないんですよね。発表する場所がないもんだから、街で暴れるじゃないですけど、ストリートで作品見せるとか、そういうことをみんなやってるんです。あと、「中村と村上展」っていうのもあって、中村政人さんと村上隆さんが一緒にソウルや大阪のラブホテルを使って展覧会をした。あと中ザワヒデキさんなんかも加わって、「マラリア・アートショー」なんていう、クラブでも展覧会をやるんですね。当時発表する場所といえば、貸画廊しかなかったわけで、でも貸画廊なんかファックだから、自分たちで勝手にやってやるぜ的な。当時のクラブカルチャーとも融合して、いろいろ面白いことが起こってるんですけれども。

楠見:当時の若手のデビューの仕方といえば、必死にバイトしてお金貯めて貸画廊で個展やって、それで『美術手帖』のレビュー欄にとり上げてもらうという方法しかなかったんですけど、なんかそういう駒の進め方じゃないだろうというオルタナティヴな発想が一挙に噴出した。

中村:それまでとは違うアーティスト・サバイバルをアーティストたちが考え始めたんですよね。お金出してギャラリーを借りる、なんかちゃうんじゃないのそれって。ストリートから出来んじゃねえのみたいな。須田悦弘(1969-)さんもトラックに作品を乗せて銀座のパーキングに停めて作品を展示するみたいなことをやっていた。

眞島:あれは、貸画廊を借りて展覧会をやろうと思ったら、ずっと先まで予約で埋まっちゃってて仕方なくやった、みたいな話でもあるんだよね。

中村:今じゃあありえない。須田さんなんて細かい彫刻している人がだよ、トラック乗り付けて、みたいなそういうノリ、こういうのって、YBA(YOUNG BRITISH ARTIST)なんかにも繋がるものがあるんじゃないかなと思うんですが。

眞島:その辺の話を今考えてたんですけど、「フリーズ」っていう展覧会が80年代後半にロンドンであった。ダミアン・ハーストが学生の頃に組織した若い作家のグループ展です。私は実際には見てないのでイメージでしか語れないのですが、コマーシャルギャラリーよりもプロフェッショナルにオーガナイズされた、多分すごくきちっとした展覧会だったと思うんです。

中村:学生のくせに?

眞島:それで、そういうやり方がイギリスの中でインパクトを持ったのに対して、「ザ・ギンブラート」や「新宿少年アート」っていうのは、私は1994年の「新宿少年アート」は見ていて、でも今ひとつ感覚として掴めないところがあったんですけれども、これは要するに60年代のネオ・ダダであるとか、あの時代の日本のアヴァンギャルドをもう一度呼び起こしたっていうところがあるんじゃないかと思うんですよ。

中村:YBAに近いっていうよりは、どちらかと言うとそういう日本のネオ・ダダイズム・オルガナイザーズみたいな…。

眞島:状況は似ているんだけれども、そのときに何を引っ張りだして、何をスタイルとしたかっていうのは全く違った。

楠見:イギリスにはサーチコレクションがあったから、要するに「フリーズ展」をやることによって、サーチに買ってもらおうっていう。

眞島:そういうのは確実にあったと思います。コマーシャルの意識が最初からあった。

中村:コマーシャルの意識があるロンドンと、貸画廊なんて…と思っている東京、だいぶ辛いね、なんか(笑)。

眞島:ただ、若いアーティストの動き方の根本の部分では、ほぼ同じようなメンタリティーがあったはずです。

永瀬:ここで口挟まないと言えなくなっちゃうんで言っちゃうんですけど、僕はこの流れに乗ってなくて、1989年に入学して1993年に卒業するまで何をやっていたかっていうと、大学の演劇部にいました。絵を描かずに、延々演劇をやってたんですね。

中村:当時は「第三舞台」とか?

永瀬:「第三舞台」を含めた小劇場ブームが一段落してました。青年団等が出るまでの谷間の時期で、僕らは造形大で役者が全員自分で自分の出るところを台本書いて、パッチワークみたいにセッションを繋げるみたいなことやってたんです。まぁその内容はどうでもいいのですが、大学の演劇部の名前が「エディット」だったんですよ。

楠見:ああ〜。

中村:なるほど、なるほど。

永瀬:演劇をやる人間にも編集っていう言葉が非常にクリエイティブに響いた。大学の演劇部ですよ? なんかすごいドロドロしてそうじゃないですか?

中村:僕多摩美の演劇部だったけど、ドロドロしてたかも(笑)。

永瀬:あ、そうなんですか!(笑)。パネル借りに行ったりしました。そういうちょっと外から見たら、「え? ポップとか編集とか興味ないんじゃないの?」って言われる集団の名前に「エディット」って名前が付く状況がありました。

楠見:それに関して言うと、ダムタイプも元々は「劇団ザ・カルマ」っていう小劇場劇団だった。当時、新しい何かを集団でやるには小劇場は発表しやすいプラットフォームだったんだけど、それゆえ演劇以外の別の何かが混入して変質してきた時期だったと思う。

永瀬:80年代の小劇場ブームってテレビが仮想敵で、いかにテレビ的なものをそれこそ劇場に導入するかっていうのを、先に出た「第三舞台」、あるいは「劇団ショーマ」とか、「劇団新幹線」っていう人たちがやってました。自己内面表出的な、アングラ的なものとは違うもの、ポップなものを持ち込むっていう手法が、1989年、1990年、1991年くらいに一段落つきつつあったみたいな展開だったと思います。

中村:『美術手帖』でもボディ・アート特集で「バパ・タラフマラ」扱ったりしてますよね(「特集ボディ&アート進化論 きたるべきハイパー・パフォーマンス時代」、1992年1月号)。ところで、1993年頃は、ポリティカル・コレクトネスのアートっていうのも流行っていました。バーバラ・クルーガー(Barbara Kruger/1945-)とかフェミニズム系のアートもありましたよね。まだマルクス主義の残照があるというか。

眞島:時代としてはもうちょっと後なのですが、今回のシンポジウムにあたってちょっと疑問に思ったことがあって。90年代の批評一般を考えたときに、ポスト・コロニアル理論、そしてカルチュラル・スタディーズっていうのが大きくあったと思うんですが、それが日本のアートシーンにストレートに反映されたケースってあまりないと思うんですね。

中村:そりゃあ思うでしょうね、イギリスから帰ってくりゃあ。

眞島:まあ、連中が始めたものですから、それはそうなんですけれど。これはあとで話せればと思いますが、21世紀以降になってから、その辺が少しずつ繋がってきているような。

中村:今の我々にとって切実な問題として話せる。

眞島:だからこの時点では、それこそバーバラ・クルーガーの作品なんかにしても、そういう観点からはほとんど見られていなかったと思うんですね。シミュレーショニズム自体の受け取られ方が変わっていった、その過程が90年代なのかなと。

中村:これバーバラ・クルーガーの有名な作品(プロジェクションする)、ユニクロのTシャツにもなっていますけど…。

楠見:これすごい皮肉的ですよね。

中村:「我買い物するゆえに我あり(I shop therefore I am)」。これユニクロで売ってて、…なんかすごい感じがするんですよね。これ着て普通に買い物とか行っている家族とか見ると。

楠見:消費社会をアヴァンギャルドの手法で風刺した作品が現代日本の量販ブランドの商品になるなんてありえないでしょ。バーバル・クルーガー、よくOK出したよね。ところで、90年代にはエイズ差別撲滅キャンペーンをニューヨークのアーティストたちがやっていて「エイズ・デモグラフィックス」と称されたんだけど、今日本でイルコモンズ(小田マサノリ)さんがやっている反原発のグラフィカルなデモンストレーションは「反原発デモグラフィックス」とでもいうべきものなんじゃないかと。クルーガーもエイズ・デモグラフィックスもある意味20年かかってようやく自分たちのものになった、そんな気がしますね。

永瀬:なんでイギリスと日本でそれだけ差があったかというと、バブル崩壊っていいつつ、実はこの頃まだ、いまだに一億総中流っていうイメージは残ってたんですよ。

中村:いや、僕ら余裕ぶっかましてましたよ。

永瀬:そうなんです。今から就職氷河期だぞ云々って言い始めたにもかかわらず、どこか危機感の薄いイメージがあったので…。

楠見:バブルが弾けたっていうことになかなか気づけていない(笑)。

永瀬:実感がない。差別とか社会的な格差とか暴力とかが、日本の社会の中で、今こそ切実になってきましたけれども、この当時はなかった。

眞島:冷戦について言うと、資本主義陣営の勝利っていうイメージが未だにあったんだと思います。

中村:世界平和が来るんじゃないかって思ったもんね(笑)。ソビエト無くなって。

眞島:そういう感じがあったのは確かだと思います。どの程度信じていたかは分からないけれど。

中村:次行きますね。キーファー(Anselm Kiefer/1945-)がセゾン美術館で展覧会(「メランコリア-知の翼-アンゼルム・キーファー」)をやっています。

永瀬:僕このとき佐賀町エキジビットスペースに初めて行ったんですよ。

中村:佐賀町エキジビットスペースでも同時開催してますね。

永瀬:今、平和っていうのが一つ引っかかったんですけれども、クウェートの戦争っていつくらいでしたっけ?

中村:1991年です。

永瀬:そうですよね。柄谷さんが文学者のアピールを出したにも関わらず、遠い海の向こうの戦争ではあったのですが、予感っていうか、何か崩れるのかなっていうイメージは、ちょっとあった。

中村:平和になるのかなーと思ったら、また戦争が起こった。

永瀬:戦争が起きているのに、日本だけ平和っていうギャップがあった。

中村: 1月17日にアメリカ軍が戦闘を開始するんですが、その日が(大学の)講評会で。新聞に湾岸戦争始まる、なんて書いてあるのに、なんか日本画のしょうもない絵を描いてるんですよ、自分は。それで「今日は講評会だ〜」なんて八王子の山奥で言ってて。すごく違和感あったの覚えてますね。

永瀬:僕は違和感を覚えられない自分っていうのをイメージしてました。「あ、平和なんだ」って、すごいのほほんとしてた。イギリスとかどうだったんですか? 参戦してますよねイギリスは。

眞島:私は、あのときは家の近所のカフェでいつものように定食を食べていて、テレビでイギリス空軍の司令官が「今回の作戦は…」っていうのを延々と説明する番組を見て、「あ、戦争やっている国は違うな」と思っていました。そんな感じです。

中村:キーファーに戻っていいですか? 個人的に思い出すのは、87年の「ドクメンタ8」にキーファーが出てるんですけれども、当時僕は立川美術学院って予備校に行ってたんですね。そこに菅原健彦(1962-)さんっていう今は京都造形芸術大学で日本画を教えていらっしゃる先生がいたんですけど、彼がドクメンタを見に行って帰ってきたときに、「ケンゴすごいよ。ドイツ館に入ったらね、なんか暗くて、近づいて見てみたら壁全体が全部絵だったんだよ! それがキーファーっていう作家だったんだよ!」みたいな話をしてくれて、そうしたらやっぱりこの年くらいに、大量の画集が東京にも入ってきた。キーファーの絵っていうのはご存知の方はわかると思うんですが、砂が盛ってあるような感じの絵で、日本画の人が真似しやすいんですよ。それで芸大生の中でキーファー流行ましたね。多摩美はわりとニューウェーブ系なんで、あっさりした作品が多いですけど。そんなすぐ染まっちゃう僕ら。

眞島:それはどこもそうです(笑)


    ザ・ギンブラート

    中村政人が企画。貸画廊から始まるアーティスト・サヴァイバルに疑問を呈するコンセプトから、当時最大の画廊街だった銀座で行われた。路上で若手美術作家がゲリラ的に作品を展開した。<中村>


    新宿少年アート 

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    「ザ・ギンブラート」開催の翌年、新宿歌舞伎町に場所を移して行われた。

    [画像]乳母車に乗ってアジテーションにているのは、当時水戸芸術館学芸員だった黒沢伸。撮影しているのは中村ケンゴ(写真左)花園神社にて(写真右)<中村>


    演劇

    事業展開していく劇団が現れていた時期でもある。演劇集団キャラメルボックスはファンタジックな「お話」作りで動員を延ばした。コマーシャルなものが批評的意味を持っていた流れの一端かもしれない。キャラメルの母体となった早大演劇部「てあとろ50'」は1990年当時も後に小説家となる横田創氏を中心に活動しており、筆者は舞台を目にした。また青年団がアゴラ劇場で台詞を重ねて発話していたことには驚いた。青年団は後のチェルフィッシュなどへ繋がる。<永瀬>


    バパ・タラフマラ

    1982年旗揚げの劇団、ダンス・カンパニー。舞台美術などの造形も現代美術的に洗練されていた。今年(2012年)3月解散が報道された。筆者は1990年8月の「パレード」(真鶴特設野外劇場)を見ている。夕刻の海岸に設営された劇場で海を感じながら展開された舞台は幻想的であった。<永瀬>


    ポスト・コロニアル理論、そしてカルチュラル・スタディーズ

    90年代日本のアート・シーンにおけるポスト・コロニアル理論とカルチュラル・スタディーズの(あまり多くない)具体的な実践の一つとして、慰安婦問題などを扱った嶋田美子の諸作品が挙げられるだろう。いわゆる従軍慰安婦問題は、90年代の日本で最も大きな論争を巻き起こしたポスト・コロニアルのトピックである。<眞島>

1994年(平成6年)
1994年(平成6年) ※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:この年にミヅマアートギャラリーとタカ・イシイギャラリーがオープン。2年後佐賀町に小山登美夫ギャラリーもオープンするんですね。当時はそうしたコマーシャルギャラリーこそ、インディペンデントっていうか、カウンターのイメージがあった。

永瀬:80年代を引っ張ったコバヤシ画廊さんなどもありましたが、いずれにせよ日本的な銀座の画廊が主だった所に小山登美夫(1963-)さんとか三潴末雄さんとか出てきて新鮮でした。こういう動向を準備した下地としてアメリカ型資本主義、要するにグローバル経済の波及の始まりがある。例えば『EV. Cafe超進化論』(講談社、1989年)っていう本があって、当時の空気がよく分かります。

中村:持ってたよ。

楠見:もちろん僕も。

永瀬:村上龍(1952-)と坂本龍一(1952-)が、当時の批評的なスター達を捕まえて対談する本ですけれども、柄谷の発言を引くと「しかるにここ三年くらいの間に感じたのは、そういう形而上学批判の仕事は理論的な意味で“高尚な”仕事なんだけど、しかし、一方でそんなディコンストラクションは資本主義がやってくれることなんですよね。そのことは僕は嫌なわけじゃない。むしろ資本主義をみなさいよっていいたいわけ」。こういう言説があったところに、コマーシャルギャラリーが出てきた。今、コマーシャルギャラリーに批判的な立場の人は、乱暴に言えば沢山ある一般のショップと変わらないじゃないかと言うかもしれない。しかし当時の文脈で言うと、開かれたマーケットで交換されるコマーシャルなアートこそが既存の美術をディコンストラクションする、閉ざされた領域を脱構築していく。そういう思潮がありました。そこを踏まえないといけない。

中村:今のイメージとだいぶ違いますよね。当時、カウンター的な存在としてコマーシャルギャラリーがあったということは、中央にはなにがあったのでしょうか?

永瀬:安井賞とかやってたんですよ。わかりますか? 安井賞。あと、現代日本美術展っていうのがあったんです。これは荒川修作(1936-)さんなんかがある期間出していて、それなりに一時代を築いていたのですけれども形骸化してました。 安井賞っていうのはどう説明したらいいですかね。…ひどい。ひどい展覧会だった。そのひどい展覧会で賞をとることが、当時画家の登竜門だったんです。文学でいうところの芥川賞とるみたいなイメージだった。

中村:(永瀬さんが)安井賞ひどいって言ったってみんなツイートしてね(笑)。

永瀬:(笑)。村上隆さんも出してましたよ。DOB君シリーズを。彼がトドメを差したようなものですが。現代日本美術展なんかを見に行くと、文字通り現代アート版日展と言ってもいいくらい会場が死んでました。そういうものが続々と終わっていく中でコマーシャルギャラリーが出てきたってことだと思います。

中村:この年、眞島さんが水戸芸術館のクリテリオムで展覧会されています。僕もこの年デビューです。やっと、90年代において自分たちの話もできるようになりました。

眞島:私の一連の「天ぷら」作品、あれの最初の発表が94年です。画像ありますか? 個展に至った経緯を簡単に説明すると、94年の頭頃だと思うんですが、NICAF(国際コンテンポラリーアートフェスティバル)という、何回目かはちょっと分からないのですが、アートフェアが横浜であったんです。

中村:アートフェア東京みたいなのが、90年代頭にもあったんですよね。

眞島:そうです。そこに、ペンローズ・インスティテュートっていうところがブースを出していたんです。ロンドンICAの姉妹機関という触れ込みの、オープンして半年くらいで閉まっちゃった場所なんですが、そこのブースで、椹木野衣、池内務(1964-)、黒沢伸(1959-)、西原珉(1964-)といった、当時の若いとんがった批評家や学芸員にプレゼンできる機会があって、そこで色々話が決まっていったという経緯です。

中村:これみなさん知っている人は知っていると思うけど、ヴィーナス像を天ぷらで揚げているっていう作品です。

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眞島:そうです。

中村:これ、今だったら「ARTはアーホ!」(フジテレビ)とかに出られるね(笑)。

眞島:出られるでしょうね。実際に「トゥナイト2」(テレビ朝日)とかに出ましたからね(笑)。

中村:見る人はそういう風に見ちゃうよね。これダウンタウンとかも真似してたから。

眞島:ああ、それはもう、みんながやってくれれば(笑)。

中村:実際もうこんな風にして頑張ってやるっていうね。ドラム缶にサラダ油入れて…。(プロジェクションする)

眞島:はい、力業でやりました(笑)。これがデビューです。

中村:…ここでちょっと難しい話なんですけど、この年に、ロザリンド・クラウス(Rosalind E. Krauss/1941-)の『オリジナリティと反復―ロザリンド・クラウス美術評論集』(小西信之翻訳、リブロポート)という本が出ています。クラウスっていうのは、アメリカ人ですよね。ポストモダニズムの有名な評論家です。

眞島:『オクトーバー』ですね。

中村:グリーンバーグの弟子なのかな、アメリカには『オクトーバー』っていう非常にハードな美術評論誌があるんですね。

永瀬:その前段階で1987年にハル・フォスター編集『反美学―ポストモダンの諸相』(勁草書房)っていう本が出ているんです。これは今紹介があった『オクトーバー』誌の周辺にいる人々によるオムニバス本で、それを訳したものです。クラウスも入ってる。これ、凄い事だと思うのですが、いまだに再版をしているんですね。ずーっと出し続けている。つまりそれなりに一定数売れている。ポストモダンをきちんとモダンに対する検討として理論的におさえる本が1987年に出て、それがニューアカブームの残照みたいな感じで読まれたんだと思います。
確認したいのは、1987年に『反美学』が出て、クラウスの本が出る1994年まで7年ある。翌年に『モダニズムのハードコア』っていう本が、『批評空間』の別冊として出るのですが、既存の油画と彫刻みたいなものには当然反感を覚えるし興味がないにもかかわらず、いわゆるネオポップなもの、メディア操作的なものっていうのともちょっと違うかな、っていう人間は、ほぼこの数年って行き場がない。僕個人は実際この間実質何もしてない。それは僕が怠惰だったからですが、後から振り返るとその間黙々と絵を描き続けていた人っていうのはいたんですよ。

中村:僕たち、ストリートやクラブで盛り上がっていたんだけれども、絵を描いていた人たちもちゃんといたと…。

永瀬:抽象表現主義美術以降の展開を非常に真面目に捉えて、まともにショックを受けて、アメリカ美術の理論的な高さをタームとして取り入れるというよりは、身体的に受け止めた人っていうのは、少数いた。その人たちはこの間延々描いている。

中村:僕らが吉本隆明系だとすれば、そうじゃないのがあったっていうこと?

永瀬:うーん。吉本隆明もそんなに簡単にポップって言っていいのかというのがあるんですが、ただまぁ要するに、これは2001年くらいの話になってようやく出てくるんですけれども、ART TRACEとかphotographers’galleryとか、そういうちょっと…。

中村:眞島さんの天ぷらにしても僕の作品にしてもポストモダンだと思うんですね、そういう中でポストモダンやらずに、ちゃんとモダニズムをやっている人たちがいたっていう。

永瀬:彼等がモダニストかはともかく、モダニズムっていうものを正面から受け止めて考えていた人はいた。あまり表に出ませんでしたけど、この出版の状況がある。『反美学』が持続的に売れ続け、クラウスの評論集も出た。次いで『モダニズムのハードコア』が出るとき編集委員の一人の松浦寿夫(1954-)さんは、これは売れると思ったって言うんですよ。要するにそういうものの潜在的読者を自分の授業の学生さんとかから感じていたんだと思う。

中村:当時は表に出てきていないけれども、ゼロ年代も後半になってくると、その動きが表に出 てきて、永瀬さんが動きだすっていうのもまさにそのことかなって思うんですけれども。



    「天ぷら」作品

    『衣付きソーセージ』(“Sausage in Batter”)シリーズ(1994年−)。ミロのビーナスの石膏像などのオブジェに、小麦粉、卵、牛乳を混ぜた衣を付けて油で揚げる彫刻作品。<眞島>


    ペンローズ・インスティテュート

    ロンドンICAの創立者の一人、ローランド・ペンローズ(Roland Penrose)の名を冠したアート施設。正式名称はPenrose Institute of Contemporary Arts、略称はPICA(パイカ)。展覧会をわずか数回開催した後に閉鎖された(こけら落としは「具体」展)。筆者はここへの就職を期待して、ロンドンICAの開発部で一ヶ月ほどインターンをした経験がある。帰国後に履歴書を送ったものの、「現在、求人はしておりません」の一文で就職活動はあえなく終了となった。<眞島>


    ロザリンド・クラウス

    1941年生まれ。美術批評家。グリーンバーグの生徒として強い影響を受けるもやがてその影響下から脱出。「オクトーバー」も編集。『オリジナリティと反復』はこの「オクトーバー」連載論文からとられた。主著と言える『オリジナリティと反復』が日本で長く版元品切れとなっているのは影響が大きい。何らかの形で再刊が望まれる。<永瀬>

     

    『反美学―ポストモダンの諸相』

    『オリジナリティと反復』が新刊で買えない状況でこの書籍がいまだに書店で入手可能なのは素晴らしい。なお、編者が同じハル・フォスターである『視覚論』も平凡社ライブラリーで出ているので、併せて読む事が望ましい。というか『視覚論』が出たこともおそらくは『反美学』が売れた事の反映のように思われる。もはや何故そんなに持続的に売れるのか不思議。<永瀬>

     

    『モダニズムのハードコア』

    94年に話が出てしまったが95年、『批評空間』の別冊として発刊。編集委員は浅田彰、岡崎乾二郎、松浦寿夫。紀伊国屋版のグリーンバーグ『芸術と文化』が長く市場から消えた後、まともな美術理論のtxtが『反美学』以外枯渇していた中で、戦後アメリカ批評の理論的流れのポイントを実に明快に示した超参考書、といえる内容。その影響は書店から消えた後10年以上に渡っていまだ持続している。<永瀬>


    松浦寿夫

    1954年生まれ。画家、西洋美術史、美術批評。シュポール・シュルファスを早い段階で紹介している。様々な媒体に寄せた論考は多数あり重要性も高いが、とにかく本を出さない。もはや樫村晴香か松浦寿夫か、というくらい。「絵画の準備を!」が出てかつ再版されたのは奇跡的と言えるだろう。昔の水声通信を漁るのも疲れたのでなんとかならないだろうか。<永瀬>


    吉本隆明

    1924年生まれ、2012年没。詩人、文芸評論家。70年代以降全面化した高度消費社会を肯定し、文学からアニメや漫画、ポップミュージック、ファッションといった分野に迄その批評対象を加えていったが蓮實重彦曰く『吉本さんにはイメージに対する批判能力が皆無なんです』。また80年代の反原発、反核運動に対する批判は福島第一原発事故以後、改めて検証すべきだろう。筆者が美大に通っていた当時は「吉本なんか読んでいる奴は駄目だ」と揶揄された。<永瀬>




EV.Caf  超進化論 (講談社文庫)
EV.Cafe 超進化論 (講談社文庫)

反美学―ポストモダンの諸相
反美学―ポストモダンの諸相
1995年(平成7年)
1995年(平成7年)
※ピンク色で貼付けてある事柄は、年表に出ていないが、登壇者により取り上げたいと希望があったものです。

中村:阪神淡路大震災がありました。なんと阪神淡路大震災と同じ年に、もんじゅがナトリウム漏れ起こしてるんですね、(震災とは)関係ないけど。あとオウム事件です。

永瀬:オウム事件は、僕は現場の近くにいました。当日の8時25分に上野駅の日比谷線ホームに行こうとして、車両故障だと言われて日比谷線に入れない。JR京葉線で八丁堀のホームに着いたら日比谷線が封鎖されている。車両故障で封鎖はないだろうと思いつつ表に出たら出口わきで人がうずくまっていて、新大橋通りに多数の消防車と救急車が停まっているっていう状況で、職場に行って、仕事をしていました。

中村:さっき宮崎勤とオタクみたいな話がありましたけど、それとある意味美術も含めてオウム事件を捉えることもできるんじゃないかなと。

眞島:1995年のオウムのサリン事件以降、「ザ・ギンブラート」や「新宿少年アート」的なものって、なかなかやり難くなっていったということはありますよね。

中村:そうですね。…次行きます。奈良美智(1959-)さんがSCAI THE BATHHOUSEで個展(「深い深い水たまり」)をされます。東京では初めての個展です。あと東京都現代美術館がこの年にオープンしています。東京都現代美術館ができたときに、なんちゅうはずれた場所に作んのかと、アホかと。国際フォーラムを現代美術館にすればいいのにって思ったんですけど。

永瀬:中村さんとほぼ同じことを磯崎新さんが言っていますよね。トポロジカルに逆である、オフィス会議場が木場でいいではないか、美術館を都心に作れ、と。

中村:95年というのは色んな意味で日本の文化の転換点とも言われています。美術史的に言えば、中ザワヒデキさんが80年代を読み直そうっていうことをやってらっしゃるんですけど、僕もそれに影響されたところがちょっとあって、それで中ザワさんが言うには、奈良さんのような絵がこの時点で初めて「アート」というお墨付きを得たと。奈良さんの作品がどうこうということではないんですが、そういう絵は80年代からイラスト方面ではたくさんあったんだけれども、小山(登美夫)さんなんかが、これはアートだって言った瞬間に、アートシーンに入ってくるっていう。それでちょっと言いたいことは、1995年以前、「ザ・ギンブラート」にしても、「新宿少年アート」にしても、眞島さんの天ぷらにしても、いろいろ紹介しましたが、とにかく美術やってるやつで絵なんて描いているやつなんていなかった。

眞島:描いていたけれど、全く見えなかったわけですね。

中村:そうです。そういう意味では、僕も永瀬さんも同じなんです。たとえば当時、たとえばクラブで遊んでるときなんかに、自分と同じようなクリエイター志望の子がたくさんいるんだけど、何になりたいかって聞いたら、だいたい写真家か、あとはCDジャケットをデザインする人とか言うんですね。当時写真ブームがあって。あとMacも一般的になっていた。つまり、絵描きなんていうのはクリエイターになりたい人たちの将来の目標としてはない時代なんです。…そういえば80年代の終わりくらいから、「オブジェ」という言葉が生まれたり、「インスタレーション」っていう言葉が出てきたりとか、あと絵画、彫刻って言わずに、平面、立体とか言わなかった?

眞島:今でもそうでしょう。あ、でも絵画っていう言葉は、あの頃より使われるようになりましたね。

中村:今って絵画ってふつうに言うけど、当時けっこうマイナーな感じだったよ。気取ってペインティングとか言ったりしてたけど(笑)。奈良さんの登場で、抽象表現主義的でない絵が出てきたっていうのは一部ある。それからコマーシャルギャラリーも増えてきて、絵画っていうものが商品になるということもあった。

眞島:その頃の『美術手帖』で、突出した絵画特集ってあったんですかね?

中村:あります。持ってきました(『美術手帖』「特集:快楽絵画」、1995年7月号)。

楠見:1995年って、そういう意味ではオウム事件と阪神淡路大震災があったりして、日本が本格的な世紀末を5年早く迎えちゃったっていう、そういう年でもあるんだけど、多分そのときにアートシーンも変わったというケンゴ君の実感って、結構鋭いと思ったんですよ。

中村:なんかそれね、これ、楠見さんがいた頃の特集(『美術手帖』「特集:気になる日本のアーティスト」、1991年9月号)ってこんな感じの表紙だったのが、こんなにかわいくなっちゃってみたいな(それぞれの特集号を手に持って)。

楠見:「かわいい」っていう特集もありました。

中村:そう、「かわいい」も持ってきました(『美術手帖』「特集:かわいい」、1996年2月号)。

楠見:これ、僕が書籍編集部に飛ばされている間に、真壁佳織さんがBT史上初の女性編集長──しかも最年少で──になった時の最初の特集号で、まだカワイイ文化論なんてなかった時代に、やはり早すぎた特集だったんですよ。1995年が転換期になったというところで、5分休憩を挟んで休憩にいくというのはどうですか?

中村:ちょうど1時間くらいですね。わかりました。10分ほど休憩したいと思います。

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書籍化
20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から
copyright: Kengo Nakamura All Rights Reserved. http://www.nakamurakengo.com/


20世紀末・日本の美術
ーそれぞれの作家の視点から
企画:中村ケンゴ
企画協力:MEGUMI OGITA GALLERY
音響機材:NORISHIROCKS
椅子提供:Civic Art
記録:小金沢智
ビデオ撮影:亀井誠治
販売協力:原花菜子
登壇者
眞島 竜男/現代美術作家
永瀬 恭一/画家
中村 ケンゴ(司会)/美術家
楠見 清(ゲスト・コメンテーター)/美術編集者・評論家
目 次
年表作成の為の参照文献
<年表作成の為の参照文献>
BRUTUS 2008年2/15号『すいすい理解る現代アート』/美術手帖 2005年7月号『日本近現代美術史』/山内崇嗣の美術史年表wikipedia『1990年代』FUKUSHI Plaza 『20世紀略年表』
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